サッカーをしている人に、こう言ったとする。
「手があるのに、なぜボールを持たないの? 馬鹿なの?」
反対に、バスケットボールをしている人へ、こう言ってもいい。
「足があるのに、なぜボールを蹴らないの? 馬鹿なの?」
どちらも、手や足の使い方について議論しているように見える。しかし実際には、最初から別の競技をしているだけである。
何を目的とし、どんなルールの中で動いているのか。それを確認せず、片方の基準でもう片方を採点している。
かなり馬鹿らしい話だが、人間が繰り返している議論の多くも、これとそれほど変わらないのではないかと思う。
正解だけを先に決めることはできない
最近、AIを使う人と、あえて使わない人を扱った動画を見た。
正しい答えへ早く到達することが目的なら、AIを使う方が合理的である。しかし、自分で調べ、迷い、考える過程を経験することが目的なら、速さだけで比べても意味がない。
この二人の間には、AIについての意見の違いがあるように見える。
しかし、その前に目的が違う。
一人は早く答えを得たい。もう一人は、自分で調べて考えたい。求めているものが違うのだから、速さだけで比べても噛み合わない。
この話は、「AI時代に人間にしかできないこと。それはAIを使わないこと」に書いた。
そこで改めて気づいた。
何が正しいかは、何をしたいのかが決まって初めて決まる。
東京へ最短で行きたいなら、新幹線が正解になるかもしれない。途中の町を見ながら移動したいなら、自転車の方が正解になるかもしれない。
新幹線と自転車のどちらが優れているかを、目的を言わずに決めることはできない。
「何が正しいのか」と聞く前に、「何を実現したいのか」が必要になる。
目的の違いを、価値観の違いと呼んでいた
これまでわたしは、「この世に唯一の正解はなく、それぞれに都合のいい正義がある」と考えてきた。
それ自体は今も変わらない。ただ、「価値観が違う」という言い方だけでは、少しぼんやりしている。
価値観が違うから、答えが変わる。
もう少し具体的に言えば、何を大切にするかが違えば、最後にどうなってほしいかも、そこへ行く方法も変わる。
自然豊かな地球を残したい人と、人間の生活水準を上げたい人では、同じ森林開発を見ても判断が変わる。
自然を守る側にも、生活を豊かにする側にも、その人が実現したい状態がある。どちらか一方だけが「地球そのものの意思」を代弁しているわけではない。この問題は、「『地球にとって良い』は、本当に地球の価値観なのか」でも考えた。
人間は、自分の望みを単なる好みとしてではなく、「これが正しい」と話すことがある。
ここから話がややこしくなる。
サッカーとバスケなら、まだ笑い話で済む
サッカーとバスケなら、互いのルールを馬鹿にしても口喧嘩で終わる。
しかし、宗教や国家が同じことを始めると、笑い話では済まない。
宗教戦争と呼ばれるものにも、実際には領土、権力、資源、民族など、いくつもの要因が重なっている。単純に「信じている神が違ったから戦争になった」と説明できるものではない。
それでも、最終的にどんな社会にしたいのかが食い違っていることはある。
唯一の教義を社会全体へ広げたい。異なる信仰を認めない秩序を作りたい。反対に、複数の信仰が共存できる社会を作りたい。
最後の目的を当然の正解としている人から見れば、信仰を押しつける側は間違っている。しかし、唯一の教義に従うことが人間を救うと本気で考えている人から見れば、異なる信仰を放置することの方が間違いになる。
複数の信仰を認めたい人と、真理は一つだと考える人が、同じ土地でそれぞれの考えを法律や社会の決まりにしようとする。
サッカーとバスケなら別々のコートを使えばいい。しかし国家や宗教の場合、同じ土地、同じ法律、同じ人間を動かそうとするため、目的が両立しない。
同じ国や土地に、自分たちのルールを通そうとすれば、口論では終わらない。
戦争では、最後にどうなってほしいかが食い違う
現在起きている戦争でも、それぞれの側は自分たちの行動を、単なる悪としては語らない。
自国の安全を守る。奪われた領土を取り戻す。民族の独立を実現する。歴史的な権利を回復する。政権と秩序を維持する。
使われる言葉だけを見れば、どれも正しそうに聞こえる。
しかし、一方が実現したい安全と、もう一方が実現したい独立が同時には成立しないことがある。一方が回復したい領土と、もう一方が守りたい国境が同じ土地を指していることもある。
同じ出来事を見ながら意見だけが違うのではない。戦争が終わったあとに、どんな状態になっていてほしいのかが違う。
だから、事実をすべて共有すれば必ず合意できるとは限らない。
もちろん、事実誤認や宣伝によって戦争が支えられることもある。ただ、事実認識が一致しても目的が両立しなければ、対立は残る。
「平和」という言葉さえ同じではない。
反対する人間を全員黙らせれば、街から戦闘はなくなるかもしれない。それを秩序が回復した平和と呼ぶ人もいれば、恐怖によって沈黙させられた状態と呼ぶ人もいる。
双方が平和を口にしていても、どんな状態を平和と呼んでいるのかは同じとは限らない。
麻薬戦争は、何を減らしたいのか
麻薬をめぐる政策も分かりやすい。
違法薬物の使用そのものをなくしたいなら、所持や販売を厳しく取り締まり、重い刑罰によって抑止するという考えが出てくる。
一方、薬物による死亡、感染症、犯罪、生活破綻を減らしたいなら、使用者を地下へ追い込むより、治療や支援へつないだ方がいいという考えが出てくる。
どちらも「麻薬問題を改善したい」と言う。しかし、片方が測っているのは使用者や流通量であり、もう片方が測っているのは死亡や健康被害かもしれない。
ここを分けないまま、厳罰化か支援かを争えば、話は噛み合わない。
さらに、麻薬カルテル側にも目的がある。
利益を得て組織を存続させ、縄張りや仲間を守る。構成員個人にとっては、家族を養うことが目的かもしれない。地域によっては、腐敗した国家に代わって自分たちが秩序を作っているつもりの人間もいるだろう。
構成員が全員、朝起きて「今日も純粋な悪を実行しよう」と考えているわけではないだろう。本人の中では、カルテルへ入ることや命令に従うことが、その環境で生きるための合理的な選択になっている可能性がある。
これは想像だけの話でもない。
コロンビアのパブロ・エスコバルは、貧しい人々のために住宅を建て、病院や運動施設などにも金を出した。国家が十分に助けられなかった人たちへ、犯罪組織の側が目に見える利益を与えたのである。
そこだけを見れば、住民が支持したとしても不思議ではない。
現在の研究でも、国家が雇用や治安を十分に提供していないと感じられている地域では、犯罪組織が食料などの支援を行い、揉め事を処理し、独自の秩序を提供することがあると報告されている。単なる慈善ではなく、住民の支持を作り、警察へ情報が流れるのを防ぎ、自分たちの商売を守る意味もある。
つまり、支援と支配は反対ではない。助けることで支持を得て、その支持によって支配を安定させることができる。
もちろん、それだけで長期間の権力を維持したわけではない。金、雇用、買収、脅迫、殺人も同時にあった。支持している人と、怖くて従っている人を外から完全に分けることも難しい。
それでも、「国家は住民を守る側、カルテルは住民を苦しめる側」と単純に二つへ分けるだけでは、現実に起きたことを説明できない。
国家が実際の衝突で引いた例もある。2019年、メキシコの治安部隊はシナロア・カルテル幹部のオビディオ・グスマンを一度拘束した。しかしカルテル側が市内で大規模な攻撃を始め、市民や治安要員の被害が拡大する危険が高まったため、政府は拘束を解いた。
国家そのものがカルテルに滅ぼされたわけではない。ただ、その場ではカルテルが国家に決定を撤回させた。
国家より先に生活を助け、住民に恩を売り、警察へ通報されにくい環境を作る。必要なら国家の部隊まで押し返す。そこまで力を持った相手を、「ただの悪人集団」と呼ぶだけでは何も見えない。
カルテルの内部に目的があると分かったところで、わたしがその支配する社会に住みたいとはならない。
相手が何を目的にしているか分かることと、それを受け入れることは別である。
むしろ本当に止めたいなら、「悪人だから悪いことをした」で終えるより、なぜその人間にとってカルテルへ入ることが合理的になったのかを見なければならない。
仕事がなく、政府は腐敗し、警察よりカルテルの方が身近で、従わなければ本人や家族が殺される。そのような条件が残っているなら、一人を捕まえても次の人間が入る。
犯罪者を悪という一語で終わらせず、その行動が出てきた原因まで見る考え方は、「自由意志がないなら、犯罪者は悪くないのか」にも書いた。
国家の暴力だけが、最初から正義なのか
ここで「カルテルには目的があっても、殺人や誘拐は正しくない」と書けば、話は簡単に終わる。
しかし、それでは国家側のルールを、確認せずに正解として置いただけになる。
国家も人を拘束する。戦争では人を殺す。場合によっては、反対勢力を暴力で押さえ込む。それによって戦闘が終わり、後の平和が作られることもある。
国家が人を捕らえると「逮捕」と呼ばれ、カルテルが人を捕らえると「誘拐」と呼ばれる。
国家が武力で秩序を作ると「治安維持」と呼ばれ、カルテルが武力で秩序を作ると「恐怖支配」と呼ばれる。
もちろん、名前が違うだけで両者が完全に同じだと言いたいわけではない。
国家には法律と裁判があり、権力を監視する制度がある。拘束に異議を申し立て、政治へ参加し、法律を変える道も一応は残されている。
そうした仕組みが実際に機能しているなら、国家による拘束と、カルテルによる拘束には大きな違いがある。
ただし、国家がやったというだけで、その暴力が自動的に正しくなるわけでもない。
法律そのものが一部の人間だけに都合よく作られているかもしれない。裁判が機能していないかもしれない。反対する権利が残されていないかもしれない。
違いを見るなら、国家かカルテルかという肩書だけでは足りない。
何を目的とし、誰の利益を守り、そのために誰が被害を受けるのか。手続きや異議を申し立てる方法があるのか、他の手段はなかったのか、実際に何が起きたのかまで見る必要がある。
そこまで見て、初めて比較できる。
それなら、何でも正しいことになるのか
ここまで書くと、「目的が違えば正解も変わるなら、結局は何でも正しいことになるのではないか」と思う人もいるかもしれない。
そうではない。
目的が違えば答えが変わることと、どんな手段でも目的を達成できることは別である。
薬物による死亡を減らすことを目的にしたなら、どの政策で実際に死亡者が減ったのかを調べられる。国民の安全を守ることが目的なら、その政策によって安全になったのか、逆に暴力が増えたのかを検証できる。
人間が目的を選んでも、現実の結果まで好きに決められるわけではない。
何を目指すかは人間が決める。しかし、その方法で本当に目的へ近づいたかどうかは、実際に出た結果を見ればいい。
また、一つの目的を達成できても、そのやり方で何を失ったのかは別に見る必要がある。
反対者を全員殺せば、表面的な争いはなくなるかもしれない。しかし、人命や自由も守りたいのであれば、その方法を選んだ時点で、それらは失われる。
結局、複数ある目的のどれを優先し、何を犠牲にしないのかを決める必要がある。
その優先順位は、人間が決めるしかない。
わたしが選んでいる基準も、絶対ではない
わたしは、人を簡単に殺していい社会より、殺されずに暮らせる社会の方がいい。
国家が好き勝手に人を拘束できる社会より、法律と手続きがあり、異議を申し立てられる社会の方がいい。
薬物使用者を苦しませることより、死亡や依存、犯罪を減らすことを重視したい。
ただ、それが誰にとっても正しいと証明されているから選んでいるわけではない。
わたしが、そういう社会に住みたいからである。
だからといって、自分の判断を引っ込める必要はない。「これは絶対に正しい」と言う代わりに、自分が何を守りたいのかを先に言えばいい。そして、そのために選んだ方法で何が起きたのかも見る。
相手にも相手の目的があると分かったうえで、それでも両立しないなら止める。
「誰が見ても間違っているから排除する」のではない。「わたしはこういう社会に住みたい。それを壊す行動だから止める」と言う。
その方が、わたしにはずっと正直に見える。
何をしたいのかがなければ、正解も決まらない
この世に正解がない、という言葉だけを置くと、判断を放棄する話に見える。
しかし、わたしが言いたいのは、何をしても同じだということではない。
何を目指すのかを言わずに、正解だけを決めることはできない。
何を実現したいのかが決まれば、どの方法が役に立ち、どの方法が役に立たなかったのかを、実際に出た結果から比べられる。
ただし、なぜその目的を選ぶのか。その目的を、どこまで他人にも強制していいのか。そこは再び人間が決めることになる。
同じ言葉の中へ別の意味を入れたまま議論していることもある。この問題は、「『時間は存在しない』と言う前に、時間とは何か」や、「『形而上学』と言われて調べたら、むしろそっちが崩れた」でも扱ってきた。
目的が違うのか、言葉の意味が違うのか、見ている事実が違うのか。それとも、同じ目的に対して、どの方法が有効かを争っているのか。
そこを分ければ、少なくとも何について争っているのかは見える。
人類は、自分たちが望んでいる状態を誰にとっても正しいものだと考え、そのために相手を説得し、支配し、場合によっては殺してきた。
全員に共通する正解がないと認めても、争いがなくなるとは思わない。実現したいこと自体が両立しない場合はある。
それでも、自分たちが望んでいることを、「誰にとっても正しいこと」として話す必要はない。
自分は何を守りたいのか、そのために何をして、その結果として何が起きているのか。そこを続けて見ればいい。
だからわたしは、「正義」と呼ばれているものを、そのまま受け入れたくない。誰が何を望み、誰が利益を得て、誰が被害を受けるのか。そこまで見てから判断したい。
この考え方を含む、無限の波紋の基本的な立場は、COREにまとめている。


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