「人間として生まれた以上、子孫を残すことには意味がある」
「種を繁栄させることは、生物として自然な使命である」
だから結婚し、子どもを作るべきだ。
そんな考え方を目にすることがある。
以前のわたしは、こういう意見を見るたびに強い違和感を持っていた。
そもそも、人類は繁栄するべきなのだろうか。
森林を切り開き、海を汚し、他の生物を絶滅させ、地球上の資源を大量に使っている。地球全体という視点で見れば、人間などむしろいない方がいいのではないか。
人類がこのまま増え続けるくらいなら、いっそ滅亡した方が地球のためなのではないか。だから、自分が子どもを作りたいとも思わなかった。
こんな世界に新しく一人の人間を放り出すことさえ、どこかかわいそうに感じていた。
人間がいなくなれば、やがて人工物は朽ちていく。道路の隙間から植物が伸び、建物は森に飲み込まれ、野生動物が戻ってくる。
その光景を想像すると、地球が本来の姿を取り戻していくように感じた。
今でも、そういう世界を美しいと思う感覚そのものは残っている。
ただ最近、その考えのさらに一段下にある前提が気になるようになった。
人類が滅亡して、都市が森に戻った地球を見て「良かった」と感じているのは誰なのだろう。
地球なのか。宇宙なのか。それとも、ただわたしなのか。
「人類は繁栄するべきだ」も、「人類はいない方が地球のためだ」も、どちらも人間が作った価値判断なのではないか。
以前のわたしは、人間中心の考え方から離れ、「地球全体で考えれば人類などいない方がいい」と考えていた。
しかし今は、そこで使っていた「地球にとって良い」という基準まで、本当に地球の側に存在するものなのかと考えるようになった。
わたし自身、自然豊かな場所の方が好きである
ここは先に明確にしておきたい。
わたしは自然が嫌いだから、こんなことを考えているわけではない。むしろ逆である。
緑の多い場所は美しいと思う。森や海を見るのは好きだし、コンクリートに覆われた場所より、植物や野生動物が多く残っている風景の方に魅力を感じる。
人間の活動によって自然が失われていく光景を見れば、もったいないとも感じる。
つまり、自然豊かな地球の方が好ましいという価値観は、わたしの中にしっかり存在している。
その感覚を否定したいわけではない。
ただ、「わたしがそう感じること」と「世界そのものに、その価値が備わっていること」は同じではない。
「良い環境」とは、誰にとっての良い環境なのか
たとえばカラスがいる。
カラスは野生動物だが、人間ですら息苦しいと感じるような大都会にも普通に住み着いている。
コンクリートがあり、車が走り、電柱が立ち並び、人間が大量のゴミを出す。人間の感覚では、そこを「自然が失われた場所」と見ることがある。
しかし、カラスからすれば話は違うかもしれない。食べ物を見つけ、高い建物や電柱を使い、人間が作った環境の中で生きている。
もちろん、カラスが都会を美しいと思っている、という話ではない。
ただ、人間が「自然が失われた」と感じる場所を、自らの生息環境として利用している野生動物はいる。
森が増えれば都合のいい生物もいる。一方で、開けた草原を必要とする生物にとっては、森が増えることが常に好都合とは限らない。
砂漠は人間から見れば過酷な場所だが、そこを生息地としている生物もいる。深海も同じである。
そう考えると、「自然が豊かである」という状態と、「それは良いことである」という評価は、いったん分けた方がよさそうに見えてくる。
守る自然を決めているのも、人間である
捕鯨をめぐる議論にも、同じものが見える。
クジラを殺すべきではないと考える人がいる。知能の高さや希少性を重く見る人もいれば、巨大な生物が海を泳ぐ姿そのものに特別な価値を感じる人もいる。
一方には、牛や豚を食べながら、なぜクジラだけを特別扱いするのかという疑問もある。捕鯨を食文化や生活の一部として残したい人もいる。
ここで、どちらが正しいかを決めたいわけではない。
クジラを守るべきだという判断も、捕鯨文化を残したいという判断も、地球自身が出した答えではない。
どちらも、人間が何を大切だと感じるかによって作られた基準である。
自然や生態系を守るために、外来種を駆除する場合もある。
そこでは、ある生物を守るために、別の生物を殺す。外来種自身は、ただ生きられる場所で生き、繁殖しているだけである。
どの時点の生態系を「本来の自然」とするのか。どの生物を残し、どの生物を排除するのか。最終的には、人間が現在の知識と価値観から決めている。
自然を守ることに意味がないのではない。
「自然を守る」という言葉の中にも、すでに人間による選択が入っているという話である。
わたしが動物を殺して食べることから考え始め、動物性食品を一切食べない生活まで実際に試した経緯は、「完全に善良に生きることを諦めたら、ずいぶん気楽になった」に書いている。
地球は、本当に「自然を取り戻したい」のだろうか
人類がいなくなり、都市が植物に覆われていく映像を見ると、「地球が本来の姿を取り戻した」「地球が回復している」と表現したくなる。
わたし自身、その感覚はよく分かる。
しかし、地球が森林の多い状態を好み、生物が多様に存在する状態を望んでいるという証拠はない。
地球の姿は、ずっと一定だったわけではない。氷に広く覆われた時代もあれば、大規模な火山活動や大量絶滅も繰り返されてきた。
現在の緑豊かな地球だけが「正しい状態」で、それ以外が「壊れた状態」であるという基準が、どこかに書かれているわけではない。
物理的には、状態が変化している。
そこへ「良い」「悪い」を加えているのは、観測している側なのだと思う。
人間中心主義を否定しても、人間の価値観は残る
以前のわたしは、「人間にとってどうかではなく、地球全体で考えればいい」と思っていた。
これは、人間だけを特別扱いしないという意味では、一段視野を広げた考え方だったと思う。
ただ、その「地球全体にとって良い」という判断自体も、人間によって作られている。
「人間なんていない方が地球のためだ」という考え方は、一見すると人間中心主義から離れている。
しかし、その根底には、「緑が多い方が良い」「野生動物が多い方が良い」「人工物が少ない方が美しい」という、わたし自身の価値観が残っている。
人間を中心から外したつもりでも、評価する主体としての人間は残っている。
そう考えるようになってから、「地球目線」という言葉にも少し慎重になった。
それは本当に地球の目線なのか。それとも、人間が想像した理想の地球に、地球自身の意志があるように見せているだけなのか。
それでも、自然を好きなままでいい
だからといって、「全部人間の価値観なら、自然などどうなってもいい」とはならない。
わたしは自然豊かな場所が好きである。
多くの生物が生きられる環境を残したいとも思うし、人間がこれからも暮らしていける環境を維持したいとも思う。
ただ、そのときに一つだけ分けておきたい。
「わたしはそれを望んでいる」ことと、「宇宙的にそれが正しい」ことは同じではない。
森を見て美しいと思っていい。海を汚したくないと思っていい。野生動物が生きられる場所を残したいと思っていい。
その感覚を持ちながら、「これは、わたしという人間が持っている価値観でもある」と理解しておく。
わたしには、その方がしっくりくる。
自分の価値観まで観察する
最近、何かについて結論を出したあとに、「そもそも、なぜ自分はそれを良いと思っているのだろう」と、その前提まで見ることが増えた。
以前なら、その価値観を土台として、その先を考えていた。
今は、その土台そのものも観察対象になる。
自分の価値観を世界そのものだと思い込むと、その価値観から外れるものまで「間違い」に見えやすくなる。
新しい情報が入っても、すでに持っている結論に合うように解釈したくなる。自分とは違う考え方を否定したくなる。ひどい場合には、一度作った世界観を守るために、現実の方を曲げ始めることもある。
逆に、「これは世界の真理ではなく、今のわたしにはこう見えている」と分かっていれば、考え方を変える余地が残る。
他人もまた、その人の記憶や価値観を通して世界を見ている。この違いについては、「他人の評価を、自分の現実にしない」に書いた。
同じように、他人の成功を所属集団の成功へ置き換える仕組みについては、「成功したときだけ「俺たち」になる」で考えた。
新しい事実を知ったなら、更新すればいい。以前とは違う感覚が生まれたなら、それもまた観察すればいい。
価値観を弱くするためではない。
価値観を持ったまま、それに縛られないためである。
世界そのものに意味や価値があることと、自分の中で意味や価値が生まれることは、同じではないのかもしれない。
どこまで分かっていて、どこから先をまだ分からないものとして残すのか。その境界については、「分からないものを、分かったことにしない――わたしにとっての「無知の知」」にも書いている。
自分が世界をそのまま見ているのではなく、自分の価値観を通して世界を見ている。
そのことを忘れずにいれば、自分の考えを何度でも更新できる余地が残る。
わたしが自分の価値観まで観察したいと思うのは、その余地をなくしたくないからである。


コメント