わたしが考える「成功」の条件
だが、当の本人が幸福ではなかったのなら、あれを成功と呼んでよいのだろうか。
今日が幸福で、明日の選択肢も増えている
世間から成功者に見えていても、本人が毎日を苦痛に感じているなら、その人の現実は不幸である。わたしは海外でメジャーデビューし、チャートで結果を出した。
その後、別の仕事で金も稼いだが、当時の自己感覚は幸福とは言いがたかった。
だからといって、「内面で幸福を感じられれば、現実はどうでもいい」と言いたいわけでもない。
家賃を払えず、借金の督促が届き、身体を壊しているのに、考え方だけ変えて幸せだと言い張るのは無理がある。
酒を飲んでいる間だけ気分がよかった時期もあるが、あれを幸福な生活とは呼べない。
外から見える成功だけでも足りないし、内面だけの幸福でも足りない。そこで、わたしは成功を次のように定義し直した。
今日を犠牲にして、いつか成功したら幸福になるという生き方は選ばない。しかし、今日さえ気分よく過ごせれば、未来が崩れても構わないという生き方もしない。
今をちゃんと生きながら、金、身体、仕事、住む場所の選択肢を少しずつ増やしていく。この二つを両立させている状態を、わたしは成功と呼ぶ。
毎日何かを増やす必要はない。休んで身体を戻すことも、今ある選択肢を失わずに済むようにすることも、そのために必要なことだ。
これは万人に共通する正解ではない。
だが、少なくとも、一度は世間的な成功を経験し、その先で「これではなかった」と感じたわたしにとっては、以前よりはるかにしっくりくる定義である。
その経緯は、Episode 0にまとめている。
普通を嫌い、特別な人生を求めた
そもそも、わたしは十代の頃から、いわゆる普通のレールに乗る人生を強く嫌っていた。
大学へ進み、就職し、そのまま社会の中で普通に生きていく。そういう人生を自分が歩むことは、当時はほとんど考えられなかった。
だからといって、何もせず、楽な方へ流れながら時間を潰していくような人生を送りたかったわけでもない。むしろ、そんな生き方は論外だった。
当時のわたしが欲しかったものは、かなり分かりやすい。
だから大学進学ではなく、ミュージシャンを目指す道を選んだ。
そこから先、わたしはかなり長い間、「どうすればもっと良い人生になるのか」を考え続けることになる。
振り返ってみると、その中でわたしが実際に触れてきた考え方は、大きく三つに分けられる。
精神だけでも、金だけでも足りなかった
三つとも、まったく意味がなかったわけではない。それぞれに使える部分はあった。ただ、どれか一つだけで人生全体を処理しようとすると、わたしには無視できない問題が残った。
スピ・引き寄せ系――気分を変えれば、現実も変わる
引き寄せやスピリチュアルには、他人の評価や将来への恐怖から距離を取るうえで役に立つ部分がある。
ただし、内面を整えることが、「現実的な行動をしない理由」に変わった瞬間におかしくなる。
宇宙を信頼しても、家賃の引き落とし日は待ってくれない。部屋で寝ながら「受け取る準備はできている」と唱えても、口座の残高は基本的に増えない。
成功哲学・ビジネス系――結果を出せば、幸福になれる
大量に行動し、数字を追い、競争に勝つ。現実を動かす方法としては強い。
しかし、現在の苦痛をすべて「成功までの我慢」で処理すると、結果が出た後にも幸福が来ないことがある。
これは一般論として想像しているのではない。名声を得たときも、金を稼いだときも、わたし自身に起きたことである。頂上へ着いたのに、そこに欲しかったものがなかった。
悟り・ノンデュアリティ系――現実の問題まで幻想として扱う
悟りやノンデュアリティには、肩書や世間体を必要以上に深刻に受け取らずに済む強さがある。
だが、「すべて幻想だ」を現実の問題にまで広げると、家賃も疲労も身体の痛みも放置することになる。
社会的なラベルは脳内の解釈かもしれない。それでも殴られれば痛いし、寝なければ身体は壊れる。この切り分けについては、「他人はいない。仮想現実かもしれない。それでも、殴られれば痛い」で詳しく書いた。
気分だけを整えるのでも、結果だけを追うのでも、すべてから降りるのでもない。では、自分はどう生きればいいのか。
その答えがすぐに見つかったわけではない。
人生を難しく考えず、気楽に生きられればよかった
成功しても終わらなかった。内面を変えようとしても、悟りのような考え方に触れても、わたしの中ですべてが片づくことはなかった。
その後、生活そのものを壊し、虚無のような時期まで通った。
そこで、十代の頃にはほとんど考えもしなかったことを思うようになった。
再就職して普通に働くのでもいい。大きな成功や肩書きを追わず、フリーターのような働き方で気楽に暮らすのでもいい。
若い頃なら否定していたような生き方が、むしろかなり良いものに見えてきた。
ところが、そこで別の問題が出た。
今日がそれなりに楽しかったからそれでいい、と終わることができない。
先のことも考えるし、何か引っかかれば延々と分析する。必要なところで考えるのをやめられる人が羨ましくなったが、そもそも自分はそういう性格ではなかった。
だから、考えることをやめるのではなく、考える人間のまま気楽に生きる方法を作るしかなかった。
自我を消さず、警報として扱う
では、わたしは不安や焦りのようなものをどう扱っているのか。ここは、スピリチュアルや成功哲学、悟りの考え方とはかなり違う。
ここでいう自我とは、不安、焦り、恐怖、嫉妬などの感情となって声を上げる、自分の中のうるさい部分である。
わたしが触れてきたスピリチュアルには、それを望む現実を遠ざける「ブロック」として扱う考え方があった。ビジネスや成功哲学には、弱音として押さえ込み、結果が出るまで無視しようというものもあった。
悟りについても、自我は幻想であり、それが消えれば楽になる、という説明に触れてきた。
わたしは、不安や焦りを消すべき邪魔なものとは考えていない。自我の言うことをすべて信じる必要はないが、何かが起きていることを知らせる警報として受け取っている。
ただし、警報が鳴ったからといって、目の前で必ず火事が起きているわけではない。借金、未払い、収入不足、未処理の仕事など、外側の問題が原因の場合もある。
一方で、酒が残っている、寝不足である、疲れ切っている、身体をほとんど動かしていないなど、内側の物理状態によって警報が過敏になっている場合もある。
過去の記憶に身体が反応していることもあるだろう。
だから、自我を説得したり黙らせたりする前に、何に反応しているのかを見る。支払いが迫っているなら金を作る。未処理の仕事があるなら手をつける。
酒で翌日が壊れているなら飲まない。寝不足なら寝る。頭の中だけで不安を処理しようとして同じ場所を回り続けているなら、身体を動かす。
処理できるものを処理すると、少なくともわたしの場合、絶望や自己否定はほとんど消える。
問題は残っていても、次に何をすればいいかは決まるからだ。
精神を無視して現実だけを動かすのでも、現実を無視して気分だけを整えるのでもない。外の問題を処理し、同時に、その現実を受け取っている身体も整える。
わたしがやっているのは、結局これだけである。
この身体側の整え方については、「借金455万円の生活を『至福』に変えた、六つの習慣」にまとめている。
考え尽くすことで、今日だけを生きられる
わたしが理想としているのは「一日一生」という生き方だ。今日という日にやることをやり、その一日だけで人生を一度完結させる。
未来の成功を待たず、今日の中に幸福を置く。
そのために、心配性で分析癖のある自分の性質を、そのまま準備に使っている。
フードデリバリーが明日できなくなったらどうするか。収入が足りなくなったら何の仕事をするか。住む場所を変える必要が出たら、どこへ移り、何で生活費を稼ぐか。
考えられる失敗を先に考え、実際に使える退路を用意しておく。
最悪の場合に何をするかが決まっていれば、今日の出来事を必要以上に恐れずに済む。
わたしにとって一日一生は、考えることをやめて手に入れる境地ではない。
考え尽くした後に、ようやく実現する生き方である。
もちろん、考えればすべての危険をなくせるわけではない。今できる準備をし、何か起きたときの対応を決めたら、残りは起きたときに考える。そこまで決めて、ようやく今日へ戻れる。
考え続けていたのは、将来の危険だけではない。以前は、誰にも何にも負担をかけずに生きられるのかという問いにも行き詰まっていた。「完全に善良に生きることを諦めたら、ずいぶん気楽になった」には、自分に課していた別の条件を手放した経緯を書いている。
必要なのは、何が起きても動じない人間になるような悟りではない。人間も、企業も、国も、百パーセント同じ動きを続けるものではないと理解し、予測が外れた場合の出口を作っておくことだ。悟りではなく理解によって現実へ戻るというスタンスは、「わたしは、究極的に言えば何も信じていない」にまとめている。
この考え方を、配達中のケガやアカウント停止への備えにまで落とし込んだ日の記録は、「今日だけを生きるために、最悪の明日を先に片づけた」に書いた。
配達で今日を生き、別の収入源も育てる
現在のわたしには約455万円の借金がある。非電動のママチャリでフードデリバリーをし、その日の生活費と返済原資を作っている。
同時に、ブログや書籍などの執筆も続け、将来の収入源を少しずつ作っている。
もちろん、書けば簡単に金になるという話ではない。読まれなければ何も生まれないし、収入につながるまでにどれだけ時間がかかるのかも分からない。
ただ、これはまったく経験のないことに賭けているわけでもない。
わたしは以前、アフィリエイトで収入を得ていた時期がある。当時のわたしも、最初は「ブログなんかで本当に金になるのか」とかなり疑っていた。
実際に口座へ金が振り込まれるまでは、どこか半信半疑だった。それが一度、二度と続き、やがて自分がほとんど何もしなくても収入が入ってくる時期まで経験した。
ネット上に記事や本などを積み上げ、それがあとから読まれたり買われたりして収入につながる。そういう形で金を得ている人は今も珍しくない。
ただし、以前と同じブログを作っているわけではない。今回は、検索需要に合わせた記事ではなく、自分が実際に生き、考え、試したことを中心に残している。
ネット上の文章が収入になることは知っているが、この形でどこまで成立するかは、これから確かめる。
今は配達で生活費を稼ぎながら、こちらも少しずつ育てている。
配達は、今のわたしにとって使い勝手のよい仕事である。ただし、配達員を、自分の固定した職業や肩書きとは考えない。
どれだけ真面目に働き、評価を積んでも、規約変更や一件の通報で状況が変わる可能性はある。職業は、その時点で使える手段の一つにすぎない。
配達が続けられるなら続ければいい。無理になれば、期間工でも、倉庫でも、清掃でも、別の仕事へ移る。そのときも、原稿、ブログ、書籍、経験、考え方は自分の側に残る。
仕事や住む場所が変わっても、原稿、ブログ、書籍は増やし続ける。
自分を「配達員」と定義しない理由は、生存記録にも書いた。
今日の生活費を作れている。身体を動かした後の飯がうまい。その日の経験を文章として残せた。
そして、特定の会社や仕事に人生を握られないための選択肢が、昨日よりわずかに増えている。
生活費と返済のために長時間走っている現在は、世間でいう成功者の姿からは遠い。それでも、この一日だけを見れば、すでに欲しかった生き方の一部は実現している。
成功を未来の一点ではなく、今日を幸福に過ごしながら、明日以降の選択肢も増やしていく過程として見るなら、現在地の意味も変わる。
奇跡が起きるかどうかは、ついでに見ておく
最後に、巷で言われている「引き寄せの法則」についても触れておきたい。
引き寄せでは、先に良い気分でいれば、その状態に合った出来事が起きると言われる。
それが本当なら、食事、断酒、睡眠、肉体労働によって日常的に機嫌よく生きているわたしにも、何かしら都合のよい出来事が増えるはずである。
だから、神に祈るつもりはないが、結果は見ておく。偶然以上のことが起きるのか、何も起きないのか。
起きたとして、それが超常現象なのか、機嫌がよくなって行動が変わった結果なのか。簡単に証明できる話ではない。
奇跡が起きなければ、それまでである。起きても、すぐに宇宙の采配とは決めない。
ただ、借金まみれの中年が、現実的なことだけをやりながら機嫌よく生きていたら何が起きるのか。観察対象としては面白いので、その経過も残していく。
これは、わたし自身が試している成功の形である
わたしは、この成功の定義を他人へ押しつけるつもりはない。
普通に会社で働く人生で満足できる人もいる。人生について考えても、必要なところで切り上げ、その日の生活を楽しめる人もいる。金や結果を追うことがそのまま幸福につながる人もいれば、何も持たない生活で幸福な人もいる。
その道を本人が選び、本人の自己感覚で納得しているなら、外から否定する理由はない。
これは、考えることをやめられないわたしが、自分の気質に合わせて作っている生き方である。
現在は、その形を自分の生活で試している。
この定義で本当に生きていけるのか。借金を返し、収入源を増やし、場所に縛られない生活へ移れるのか。それでも現在の幸福を失わずにいられるのか。
結果が出る前から、その過程を記録していく。
真似する必要はない。うまくいけば使える部分だけ持っていけばいいし、失敗すれば失敗例として見ればいい。わたし自身も、今後の結果に合わせて考えを変える。