他人はいない。仮想現実かもしれない。それでも、殴られれば痛い。

黒・青・グレーを基調とした「他人はいない。仮想現実かもしれない。それでも、殴られれば痛い。」のイメージ 生存戦略

わたしは「他人は存在しない」という考え方を、かなり気に入っている。

誰かに底辺だと思われても、その評価が相手の頭の中だけで終わるなら、こちらの生活は何も変わらない。

世間の目に怯えているとき、実際にわたしを苦しめているのは、目の前にいる人間そのものではなく、自分の脳内につくった「他人」であることも多い。

相手がわたしをどう思っているのか。陰で何を言っているのか。馬鹿にされているのではないか。その多くは、こちら側の頭の中でつくられた物語である。

だから「他人はいない」という考え方は、かなり便利だ。

ただし、この考え方は使う順序を間違えると危ない。

他人の評価は脳内の出来事かもしれない。この世界そのものが仮想現実である可能性だって、わたしには否定できない。しかし、だからといって、いま感じている苦しさまで「存在しない」で片づけていいわけではない。

思い込みだろうが、被害妄想だろうが、本人が苦しんでいるなら、その苦しさはその時点で現実に存在している。一方で、その苦しみに自分が与えた「意味」まで、本当に正しいとは限らない。

ここは分けて考えた方がいい。

苦しみそのもの。苦しみに与えた意味。身体や金や時間に実際に起きている変化。

この三つは、同じではない。

苦しみは現実だが、その解釈まで事実とは限らない

たとえば、街で誰かに笑われ、そのことが頭から離れず眠れなくなったとする。「笑われた程度だから実害はない」と言われても、実際に眠れず、翌日まで気分が落ち込んでいるなら、すでにこちらの現実には影響が出ている。

だから、まず苦しさそのものを否定する必要はない。

会社へ行くのが苦しくて仕方がない人に、「気の持ちようだ」「考えすぎだ」と言って働かせ続けるのも同じである。

なぜ苦しいのかは、その時点では分からないかもしれない。上司との関係なのか。仕事内容なのか。睡眠不足なのか。酒なのか。過剰な責任感なのか。あるいは「周囲から立派な社会人だと思われなければならない」という、自分の中の考え方なのか。原因は一つとは限らない。

それでも、苦しいという自己感覚を無視しながら会社へ残り続けることの方が、わたしには現実逃避に見える。

まず、苦しいという現実を認める。そのうえで、どこへ手を入れればいいのかを見る。環境に原因があるなら環境を変える。身体が崩れているなら、睡眠や酒や食事や運動を見る。人間関係なら距離を変える。そして、自分が苦しさに与えている意味そのものが問題なら、その意味を疑う。

わたし自身が環境や身体をどう整えているかは、「借金455万円の生活を『至福』に変えた、六つの習慣」にまとめている。

悪口も同じである。最初から無害なのではない。相手の言葉を思い出すたびに腹が立ち、眠れず、一日中気分が乱れているなら、それはその時点では普通に現実の苦痛である。

ただし、悪口そのものに絶対的な力があるわけでもない。人間関係を整理し、自分が勝手につくっている物語にも気づき、そもそも相手の評価に従う必要がないと身体レベルで分かってくれば、同じ言葉が本当に意味のない音になることもある。

その段階まで来て、相手の言葉が自己感覚にも生活条件にも何も起こさないのであれば、好きに言わせておけばいい。

意味は薄められても、骨折までは消えない

では、誰かに殴られて骨が折れた場合はどうだろう。痛みに対する恐怖や解釈を変えれば、苦しみ方は多少変わるかもしれない。それでも、折れた骨まで思想で元に戻るわけではない。病院へ行き、治療する必要がある。

ここでは「他人はいない」と考えても、問題は消えない。

嘘を言いふらされて仕事を失った場合も同じである。始まりはただの言葉かもしれない。しかし、その言葉によって契約を失い、収入が減り、選択肢まで狭くなったのなら、すでに現実の条件へ影響が届いている。

そこで「他人の評価なんて幻想だから気にしない」と終わらせれば、普通に損をする。

だから、わたしが見たいのは「言葉なのか、拳なのか」という単純な分類ではない。

その出来事によって、自分の自己感覚、身体、時間、金、行動の自由に何が起きたのか。

そこを見る。

意味も、こちらの自己感覚へ入り込めば現実になる。ただ、意味によって生まれた苦しみは、物理的な損傷や生活条件よりも、自分側の処理によって力を失わせられる余地が大きい。

ここを分けておくと、何を自分の中で処理し、何に対して外側へ働きかける必要があるのかが、かなり見えやすくなる。

ラベルは捨てるものではなく、使うものでいい

この考え方は、仕事や肩書きにもそのまま当てはまる。

わたしは現在、非電動のママチャリでフードデリバリーをしている。48歳、無職、借金約455万円。世間的なラベルだけを並べれば、かなり立派なダメ人間である。

ただ、「配達員なんて底辺だ」と誰かに思われたところで、その評価だけなら、わたしの財布から一円も減らない。今のわたしは、その程度の評価で自己感覚まで大きく乱れることもない。

それよりも、出る時間と帰る時間を自分で決められること、誰かに管理されず、身体を動かしながら現金をつくれることの方が重要だった。

だから今は使っている。

ただし、「配達員である」という肩書きに自分を預けているわけではない。条件が変わり、実利がなくなれば別の仕事へ移る。仕事は自分の正体ではなく、その時点で使える手段の一つにすぎない。

この点については、「配達員は続ける。それでも、『配達員である』という意識は手放した」にも書いた。

世の中では、ときどきこの優先順位が逆になっている。

立派な社会人だと思われるために、身体を壊すまで会社へ通う。格のある人間に見せるために、身の丈を超えた車をローンで買う。世間体を守るために、本当は払いたくもない金を払い続ける。

守っているのは、他人の頭の中にある印象である。そのために差し出しているのは、自分の身体、時間、金、自己感覚である。

わたしには、こちらの方がよほど現実逃避に見える。

もちろん、高級車やブランド品が悪いわけではない。本人がそれを見たり使ったりすることで幸福を感じるのであれば、その自己感覚には普通に価値がある。営業や商売では、それによって相手からの信用が変わり、実際の利益につながる場合もある。

わたし自身、営業マン時代には先輩に勧められて高級腕時計をつけていた。「格のある人間だ」という印象を持ってもらった方が、商談がまとまりやすかったからである。

その場合、時計が持つ意味やラベルは、契約や収入という現実の結果につながっていた。

だから使った。

見栄だから駄目なのではない。ラベルだから捨てるのでもない。

自己感覚をよくするか、実際の条件をよくするなら、意味もラベルも道具として使えばいい。

問題は、自分が何を得て何を失っているのかを見ないまま、ラベルそのものを守り始めることである。

他人の目を気にしないことと、何でも話すことは違う

同じことは、自分の職業をどう名乗るかにも当てはまる。

「他人の目を気にしないなら、職業を聞かれたときも堂々と配達員だと言えるはずだ」と考える人もいるかもしれない。

わたしの答えは、ケースバイケースである。恥じているからではない。

他人の評価を恐れないことと、自分の情報を無差別に開示することは別の話だからだ。

正直に話した方が話が早くなり、関係もよくなるのであれば言えばいい。説明しても面倒が増えるだけなら言わなくてもいい。必要なら「個人で仕事をしている」程度で済ませる。

相手の脳内で自分がどう思われるか自体には、それほど興味がない。しかし、その場で何を話すかによって契約、信用、安全、今後の選択肢が変わるのであれば、それは普通に現実の条件として考える。

堂々と全部さらけ出すことが強さなのではない。

恥や見栄に振り回されず、何を出して何を出さないかを自分で決められる方が、わたしには自由に見える。

世界の正体より、今日の現実を見る

他人は本当に存在しているのか。この世界は仮想現実なのか。

正直、わたしには分からない。

そして、いまの生活をつくるうえでは、どちらでもいい。

「他人はいない」と考えることで、他人の評価から自由になれるのであれば、その考え方は使えばいい。ただし、いま実際に苦しんでいる自分に向かって、「全部幻想なんだから気にするな」と蓋をするためには使わない。

苦しいのであれば、まずその苦しさを現実として扱う。そのうえで、環境、身体、習慣、人間関係、解釈のどこへ手を入れればいいのかを見る。

そうやって自己感覚そのものが変わり、人の言葉が本当にただの音になったのであれば、もう好きに言わせておけばいい。

一方で、骨折しているなら治療する。睡眠が足りないなら眠る。金が足りないなら金をつくる。自分の時間を奪われているなら、その条件を変える。

意味で軽くできるものと、現実に物理を動かさなければ変わらないものを混ぜない。

他人はいない。仮想現実かもしれない。それでも、殴られれば痛い。

この一文は、世界の真理を説明するためのものではない。

頭の中につくられた物語に食われず、それと同時に、現在の自己感覚や身体、生活に起きている現実まで無視しない。

その境界線を忘れないための言葉である。

この考え方の土台は、CORE(思想の核心)と、成功の再定義にもまとめている。

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