他人はいない。仮想現実かもしれない。それでも、殴られれば痛い。

暗い部屋で、分裂した鏡像を映すガラスへ手を触れる人物 生存戦略

他人はいない。仮想現実かもしれない。それでも、殴られれば痛い。

わたしは「他人は存在しない」という考え方を、かなり気に入っている。

誰かに底辺だと思われても、その評価が相手の頭の中だけで終わるなら、こちらの生活は何も変わらない。

世間の目に怯えている時、実際に苦しめられている相手は、目の前の人間というより、自分の脳内につくった「他人」であることが多い。

ただし、この考え方は使う順序を間違えると危ない。

他人の評価は脳内の出来事かもしれない。世界そのものが仮想現実である可能性も、わたしには否定できない。

だが、だからといって、いま感じている苦しさまで「存在しない」で片づけていいわけではない。

思い込みだろうが、被害妄想だろうが、本人が苦しんでいるなら、その自己感覚はその時点で紛れもない現実である。

ただし、その苦しみが現実であっても、自我が苦しみに与えた「意味」が正しいとは限らない。

苦しみは現実だが、その解釈まで事実とは限らない

街で誰かに笑われ、そのことで眠れなくなったとする。

「笑われた程度だから実害はない」と言われても、実際に眠れず、翌日まで気分が落ち込んでいるなら、本人の現実にはすでに影響が出ている。

会社へ行くのが苦しくて仕方がない人に、「気の持ちようだ」「考えすぎだ」と言って働かせ続けるのも同じである。

原因が上司なのか、仕事内容なのか、睡眠不足なのか、過剰な責任感なのかは分からない。

それでも、苦しいという自己感覚を無視して会社へ残り続けることの方が、わたしには現実逃避に見える。

まず、その苦しさは現実として扱う。会社を辞める、関わる人間を減らす、酒をやめる、眠る、身体を動かす。

あるいは「他人の評価に従わなければならない」という解釈を疑う。環境、身体、習慣、自我の扱い方を変えれば、やがて自己感覚そのものが変わっていく。

わたし自身が環境と身体をどう整えているかは、「借金455万円の生活を『至福』に変えた、六つの習慣」にまとめている。

悪口は、最初から無害なのではない。自己感覚を乱している間は、現実の苦痛である。ただ、悪口そのものに絶対的な力があるわけでもない。

哲学が染み込み、面倒な人間関係を切り、自我が勝手につくる物語を見抜けるようになれば、やがて本当に意味のない音になる。

その段階まで来て、相手の言葉が自己感覚にも生活条件にも何も起こさないなら、無視すればいい。

意味は変えられても、骨折まで消えるわけではない

一方で、誰かに殴られ、骨が折れたとする。痛みに対する恐怖や解釈を変えれば、苦しみ方は多少変わるかもしれない。それでも、折れた骨まで思想で元に戻るわけではない。

病院へ行き、治療する必要がある。

嘘を言いふらされて仕事を失った場合も同じだ。口から出たのは言葉だが、収入や選択肢にまで影響が届いている。「他人の評価など幻想だ」で終わらせれば、普通に損をする。

意味も、自己感覚へ入ってくれば現実になる。ただし意味は、物理的な損傷や条件よりも、こちら側の処理によって力を失わせられる余地が大きい。

わたしが見たいのは、言葉か拳かという分類だけではない。

それによって、自己感覚、身体、時間、金、行動の自由に何が起きたのか。

ここまで見れば、内側の処理で力を失わせられるものと、外側へ働きかける必要があるものは、かなり分かりやすくなる。

「配達員は底辺だ」と言われても、条件がよければ使う

わたしは現在、非電動のママチャリでフードデリバリーをしている。48歳、無職、借金約455万円。世間的なラベルだけを並べれば、かなり立派なダメ人間である。

だが、「底辺だと思われる」というだけなら、わたしの財布から一円も減らない。今のわたしは、その程度の評価で自己感覚まで乱れることもない。

それよりも、出る時間と帰る時間を自分で決められること、誰かに管理されず、身体を動かしながら現金をつくれることの方が重要だった。

だから使っている。ただし、配達員という肩書きに自分を預けているわけではない。条件が変わり、実利がなくなれば別の仕事へ移る。仕事は自分の正体ではなく、その時点で使える手段の一つにすぎない。この点については、「配達員は続ける。それでも、『配達員である』という意識は手放した」にも書いた。

人は、ラベルを守るために現実を差し出す

世の中では、この優先順位が逆になっていることが多い。

立派な社会人だと思われるために、身体を壊すまで会社へ通う。格のある人間に見せるために、身の丈を超えた車をローンで買う。

世間体を守るために、払いたくもない金を払う。

守っているのは他人の頭の中にある印象で、差し出しているのは自分の自己感覚、身体、時間、金である。わたしには、こちらの方がよほど現実逃避に見える。

もちろん、高級車やブランド品が悪いわけではない。本人がそれを見たり使ったりすることで幸福を感じるなら、その自己感覚には価値がある。

営業や商売で相手の信用につながり、実際に利益を生む場合もある。

わたしも営業マン時代、先輩に勧められて高級腕時計をつけていた。「格のある人間だ」という印象を相手に与えた方が、商談がまとまりやすかったからだ。

そこでは時計のラベルが、契約や収入という結果につながっていた。見栄ではなく、普通に道具として使っていた。

意味やラベルをすべて捨てる必要はない。自己感覚をよくするか、実際の条件をよくするなら使えばいい。

問題は、自分が何を得て何を失っているのかも見ず、ラベルそのものを守り始めることである。

職業を正直に名乗るかどうかも、同じ話だ

「他人の目を気にしないなら、職業を聞かれた時も堂々と配達員だと言えるはずだ」と考える人もいるかもしれない。

わたしの答えは、ケースバイケースである。恥じているからではない。

他人の評価を恐れないことと、自分の情報を無差別に開示することは別の話だ。正直に言った方が話が早く、関係もよくなるなら言う。

説明しても面倒が増えるだけなら言わない。必要なら「個人で仕事をしている」程度で済ませる。

相手の脳内でどう思われるかはどうでもいい。しかし、その場で何を話すかによって契約、信用、安全、今後の選択肢が変わるなら、そこは現実の条件として考える。

堂々と全部さらけ出すことが強さではない。恥や見栄に振り回されず、何を出すかを自分で決められる方が、よほど自由である。

世界の正体より、今日の現実を見る

他人は存在しないのか。この世界は仮想現実なのか。正直、どちらでもいい。

その考えによって、他人の評価から自由になれるなら使えばいい。ただし、いま苦しんでいる自分に向かって「すべて幻想だから気にするな」と蓋をしてはいけない。

苦しいなら、まずその現実を認め、環境、身体、習慣、解釈のどこを変えられるかを見る。

そうやって自己感覚が変わり、人の言葉がただの音になったなら、もう好きに言わせておけばいい。

一方で、骨折、睡眠不足、金の不足、奪われる時間には、現実の問題として対処する。

他人はいない。仮想現実かもしれない。それでも、殴られれば痛い。

この一文は、世界の真理を説明するためのものではない。頭の中の物語に食われず、現在の自己感覚も、身体や生活に起きている問題も無視しない。

その境界線を忘れないためのものだ。

この考え方の土台は、CORE(思想の核心)と、成功の再定義にもまとめている。

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