完全に善良に生きることを諦めたら、ずいぶん気楽になった

黒・青・グレーを基調とした「完全に善良に生きることを諦めたら、ずいぶん気楽になった」のイメージ 生存戦略

昔のわたしは、今よりずっと「正しく生きる」ということを考えていた。

誰かに迷惑をかけない方がいい。できるだけ人を傷つけない方がいい。自分の利益だけではなく、他人のことも考えた方がいい。言葉にすれば、ごく普通の話である。

ただ、わたしの場合は、それを考え始めると途中で止めることができなかった。

屠殺の動画を観て、食べることまで考え始めた

その頃、特に引き金になった出来事がある。動物が屠殺される動画を観たことだ。

人間は、他人を傷つけずに生きることができるのか。さらに広げれば、他の生物を犠牲にせずに生きることができるのか。そういう問いが、毎日の食事にまで関わるようになった。

当時は、実際に動物性のものを一切食べない生活もしていた。玄米菜食を実践し、さらにその後には、白米、芋類、少量の海藻類だけを食べる生活を一年続けた。

今の肉中心の食生活だけを見ている人には、意外かもしれない。しかし、わたしは動物性食品を食べない方も、実際にやっている。

ただ、食べるものを変えても、問いはそこで終わらなかった。

牛や豚や鶏を大量に殺して食べながら、犬や猫には「家族」という言葉を使う。もちろん文化や感情の違いがあることは分かる。それでも、命の重さを分けている基準は何なのか、と考え始める。

人間一人とアリ一匹では、なぜ人間の方が重いのか。

知能が高いからなのか。それなら人間同士の知能差はどう扱うのか。苦痛を感じる能力なのか。それなら、どこまでの生物にどれだけの重みを与えるのか。

人間という種だから特別なのだと言ってしまえば簡単だが、それは結局、人間が人間自身を特別扱いしているだけではないのか。

こういう問いには、どこかできれいな答えが見つかるものだと思っていた。しかし、考えれば考えるほど逆だった。

食べるものを変えても、何の負担もかけずには生きられない

どこまで行っても、最後には人間側の都合が残る。

食べなければ生きられない。住む場所を作れば別の生物の場所を奪う。服を着ても、電気を使っても、薬を飲んでも、自分一人で完結しているわけではない。

動物性食品を避けたところで、何も消費せず、何にも負担をかけずに生きられるわけではなかった。

何かを選ぶということは、別の何かを選ばないということでもある。誰か一人を助ければ、その時間は別の誰かには使えない。

ここまで広げれば、「完全に善良に生きる」という目標そのものが成立しなくなる。

これは、何を食べても何をしても同じだけの被害が出る、という話ではない。選択によって結果は違う。それでもわたしは、負担を減らすことでは納得できず、一切の負担をなくせるのかというところまで考えていた。

生きている限り、何かを消費する。自分の存在を維持するために、世界の一部を自分側へ取り込む。わたしには、生物そのものがそういう構造で存在しているように見えた。

「わたしがそうしたいから」では、いけないのか

そう考えていくうちに、「利他」という言葉にも違和感を持つようになった。

誰かのために行動することを美しいものとして扱い、自分のために行動することを、ときには醜いものとして扱う。しかし、その二つはそんなにきれいに分かれているのだろうか。

困っている人を放っておくことに耐えられないから助けることもあれば、助ける自分でありたいから助けることもある。相手が楽になってほしいと、そのまま願うこともあるだろう。

もちろん、自分が望んで助けたからといって、相手のことを考えていないわけではない。その結果として相手が救われることもあるし、その行為を否定する理由もない。

ただ、自分の願いや感情がそこにあることまで消して、完全に「他人のため」と考える必要はあるのだろうか。

「わたしがそうしたいからやっている」

それでいいのではないかと思うようになった。

未来の人類のために行動する人も同じである。百年後、千年後の人間が困らないように何かを残したい。その願いから、素晴らしい結果が生まれることもあるだろう。

しかし、その未来を自分が見ることはない。未来の人間が本当に何を望んでいるのかも分からない。それでも行動したいのであれば、「わたしはそういう未来を残したいからやる」で十分なはずである。

ところが、それが「未来の人類のために、みんなこうするべきだ」に変わった瞬間、自分の願望が公共の正義になる。

自分の中から生まれた価値観なのに、それを自分のものだと認識しなくなる。わたしが引っかかっていたのは、このあたりだったのだと思う。

同じ構造を、自然や地球の側へまで広げて考えたのが、「「地球にとって良い」は、本当に地球の価値観なのか」である。

矛盾を見なかったことにできなかった

人間は、思っている以上に自分勝手な生物なのではないか。そして、それでいいのではないか。

昔のわたしは、そこを認めることに抵抗があった。自分の都合で生きていると認めたら、何か大切なものまで失ってしまうような気がしていたのかもしれない。

しかし逆だった。それを認めない方が苦しかった。

自分の中には利己的な欲望がある。しかし同時に、他人を傷つけたくないとも思う。困っている人を見れば助けたいこともある。動物をかわいいと思う一方で、今は肉も食べている。

それらを全部一つのきれいな理論にまとめようとすると、必ずどこかで引っかかる。そして、わたしはその引っかかりを見なかったことにするのが苦手だった。

「ここから先は考えなくていい」と自然に線を引ける人なら、それで普通に生きていけるのだと思う。わたしには、それができなかった。

だから当時のわたしには、最後は二つしか選択肢が見えなくなっていた。

死ぬか。それとも、完全に善良に生きることを諦めて、そのまま生きるか。

中間は、わたしにはなかった。

食べるだけで何かを消費し、存在するだけで他の生物や誰かの労働に負担をかける。それでも「一切の犠牲を出してはいけない」という条件を守ろうとして、生きていること自体がいけないのではないかと、そこまで考えた。

今なら、問題だったのは、その条件の方だと分かる。生きるために、そこまで満たす必要はなかった。

わたしは、完全に善良であることを諦めて、生きる方を選んだ。

完全に善良でなくても、助けたい人は助ける

誰も傷つけず、何も奪わず、何にも負担をかけずに存在する。その不可能な目標を捨てると、ずいぶん気楽になった。

これは「何をしてもいい」と考えるようになった、という話ではない。わざわざ他人を苦しませたいとも思わないし、目の前で避けられる不幸なら避けた方が気分がいい。助けたい人がいれば助けることもある。

ただ、それを「善良な人間になるため」にやる必要がなくなった。自分がそうしたいからやる。それだけになった。

逆に、やりたくないことまで「人類のため」「社会のため」「他人のため」という理由だけで背負う必要もない。

完全に善良でなければならないという条件を外しても、不思議なことに、わざわざ悪く生きたいとも思わなかった。ただ、以前よりも自分を正当化する必要がなくなった。

今のわたしは、自分を変わらない立派な人格として信じることもしていない。人間が条件によって変わることと、そこからどう生活するかについては、「わたしは、究極的に言えば何も信じていない」に書いた。

今日を生きるのに、人類を救う理由はいらない

自分は結局、自分の視界からしか世界を見ることができない。自分が死ねば、その先の世界を自分が認識することもない。

だから、百年後の社会を完璧にしなければならないと苦しみながら生きるより、今日という一日を気分よく過ごしたい。

もちろん、未来のために何かを残したくなれば残す。誰かを助けたくなれば助ける。何かを作りたくなれば作る。ただし、それらはすべて「わたしがそうしたいから」でいい。

未来を放置したいわけでもない。今日を幸福に生きながら、明日以降の選択肢も増やしていく。現在の生活で何を目指しているかは、「成功しても不幸なら、それは失敗だ。わたしが考える『成功』の条件」にまとめている。

人間には救いがない、と考えた時期もあった。しかし今は、人間にそこまで立派であることを求めなくてもいいと思っている。

動物と同じように、生まれて、食べて、動いて、欲しがって、争って、ときどき誰かを助け、やがて死んでいく。その程度の生物だと思えば、ずいぶん話は簡単になる。

わたしはわたしの都合で生きる。その結果として誰かが助かることもあるだろうし、誰の役にも立たない日もある。それでいい。

完全に善良であることも、完全に正しくあることも、人類を救わなければならないという思いも、わたしは手放した。

その代わり、存在している間くらいは、自分なりに面白く、できるだけ機嫌よく生きる。今のわたしには、それで十分である。


ここで書いた「正しさ」や「自分のために生きる」という考え方は、「CORE ── 無限の波紋の根本思想」にもまとめている。今回は、その結論に至るまでに考えていたことを書いた。

音楽、営業、ブログを経て現在の生活に至る経歴は、「Episode 0」に書いている。

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