本物の快楽主義者は、地味に生きる

青白い光が差す夜の川沿いに停めた自転車とベンチ 生存戦略

わたしは、自分のことをかなりの快楽主義者だと思っている。

ただ、「快楽主義者」と言うと、どうも世間一般で想像されるものとは少し違う気がする。

酒を飲む。うまいものを食べる。高級車に乗る。豪邸に住む。金を使って遊ぶ。より強く、より派手な刺激を求め続ける。一般的には、こういう人が快楽主義者としてイメージされやすいのではないだろうか。

しかし、わたしからすると、これは少し違う。というか、むしろ本気で快楽を追求していくと、逆方向へ行くのではないかと思っている。

快楽は、刺激だけでは決まらない

そもそも快楽というものは、外から与えられる刺激だけで決まるものではない。刺激を受け取る側との関係によって決まる。

ものすごく単純に考えるなら、外から100の刺激が来ても、それを受け取る側がほとんど反応しなければ、大した快楽にはならない。逆に、10程度の刺激しかなくても、受け取る側が十分に反応するのであれば、それだけでかなり気持ちいい。

ここで考えたいのは、「刺激を受け取る側の状態」である。

つまり、快楽を増やす方法には二つある。刺激を強くすることと、刺激を受け取る側を敏感に保つことだ。

一般的な快楽主義のイメージは、ほとんど前者に偏っているように見える。しかし、こちらには明確な問題がある。

人間は慣れる。

最初は感動したものでも、それが毎日続けば普通になる。初めて高級ホテルに泊まったときは感動しても、そこに住めばやがて日常になる。初めて高級車を買ったときは嬉しくても、それしか乗らなくなれば、それが基準になる。

すると、同じ快楽を得るためには、さらに強い刺激が必要になる。昨日の10では足りないから20へ行く。20にも慣れれば30へ行く。

これを続けていると、本人は快楽を追求しているつもりでも、実際には「より強い刺激がなければ快楽を感じられない状態」へ向かっている。

わたしには、これは快楽主義というより、刺激中毒に近く見える。

快楽を追求した結果、酒を飲まなくなった

酒は、この違いをかなり分かりやすくしてくれる。

一般的な快楽主義のイメージで考えるなら、酒はかなり分かりやすい快楽の道具である。飲めば気分が変わる。緊張が緩む。食事も楽しくなる。その場では確かに気持ちいい。

だから、快楽を追求するなら酒を飲む、というのは自然な発想だと思う。実際、わたし自身も長いこと酒を飲んできた。

ところが、自分が本当に気持ちよく生きることを考え続けた結果、今のわたしは逆に酒を飲まない方を選んでいる。

これは少し変な話である。

快楽を捨てるために酒をやめたのではない。もっと快楽を得るために酒をやめた。

少なくとも現在のわたしの場合、酒を飲んだその瞬間の快楽よりも、飲まないことで翌日以降に残る身体の軽さや、頭の動きやすさ、仕事のしやすさ、音楽を聴いたときの感情の動き、自転車を漕いでいるだけでも気持ちいいと感じられる状態の方が、全体としては価値が大きかった。

酒という強い刺激を一つ残すよりも、酒を外すことで普通の日常から取れる快楽を増やした方が、わたしにとっては得だった。

快楽主義者だから酒を飲む、という方向もある。しかし、快楽を追求した結果、酒を飲まなくなるという方向もある。わたしは今のところ、完全に後者である。

正確には、幸福追求人なのかもしれない

ここまで書いていて思うが、わたしは快楽主義者というより、幸福追求人と呼んだ方が正確なのかもしれない。

外から見て幸福そうな生活を作りたいわけではない。金を持っているように見えることにも、成功しているように見えることにも、それほど興味はない。

わたしがかなりしつこく追いかけているのは、自分自身の感覚として、本当に幸福なのかという部分だ。

朝起きたときに身体が軽い。仕事をしていて苦痛が少ない。特に何も起きていなくても気分がいい。金を大量に使わなくても楽しい。将来のために今日を犠牲にしている感覚がない。

そういう状態をどうすれば作れるのか、ということをずっと考えている。

そう考えると、やはり強い刺激を増やすことよりも、普通の刺激でも十分に快楽を感じられる状態を保つ方が重要になる。

自分が幸福であることと、明日以降の選択肢を増やすこと。その両方を含めた成功の定義は、「成功しても不幸なら、それは失敗だ。わたしが考える『成功』の条件」に書いた。

本気で快楽を求めるなら、感じる側を守った方がいい

普通の飯がうまい。外を歩くだけで気持ちいい。自転車を漕いでいるだけで楽しい。音楽を聴くだけで感情が動く。文章を書いているだけで面白い。

こういう状態にあるなら、ものすごく強い刺激など必要ない。

最近のわたし自身にも、かなりそれに近い感覚がある。別に何かものすごい出来事が起きているわけではない。ただ自転車を漕いで働いているだけなのに、それ自体が妙に気持ちいい日がある。

以前なら退屈だったようなことでも、今は普通に楽しめる。そうなると、「もっと刺激をくれ」という方向へ行く必要がなくなる。

むしろ快楽主義者としては、こちらの方が圧倒的に都合がいい。日常そのものから快楽を取れるからだ。

この、普通の日常を自然に楽しめる状態を、わたしは「無限モード」と呼んでいる。

豪邸に住むことが、なぜ快楽主義から外れるのか

たとえば大金を稼いで、ものすごい豪邸に住むとする。

もちろん、最初は嬉しいと思う。わたしだって豪邸そのものを否定するつもりはない。

ただ、それを快楽のために手に入れたのであれば、少し危うい。

なぜなら、その豪邸にもそのうち慣れるからだ。最初は「なんだこの広さは」と感動していたものが、半年後にはただの自宅になる。

すると、同じ感動をもう一度得るためには、さらに大きな家、さらに豪華な内装、さらに特別な何かが必要になる。

快楽を求めて生活水準を上げた結果、快楽を感じるために必要な生活水準まで上がってしまう。これは、あまり効率が良くない。

それよりも、普通の部屋にいて、普通の飯を食べ、近所を歩いているだけでも結構楽しいという状態の方が、快楽主義者としては強い。

必要な刺激量が少ないから、快楽を得られる場所がそこら中にある。

わたしは、金があっても生活を派手にしない人を、単純に無欲だとは思わない。欲が消えたのではなく、自由や平穏や日常の幸福へ向きが変わっただけである。この話は、「金持ちなのに倹約家は、実はむしろ欲深い」に続く。

地味に生きるのは、我慢ではない

ここで勘違いされそうなのが、「質素に生きろ」とか「贅沢を我慢しろ」という話ではない。

わたしはそういう精神論にはあまり興味がない。強い刺激を楽しむ日があってもいいし、高いものを買いたければ買えばいい。

問題は、それがなければ快楽を感じられない状態になっていないか、ということだ。

地味な生活しか選べないのと、地味な生活でも十分に楽しめるのでは、意味がまったく違う。後者なら、豪華なものがあってもなくてもいい。

そして、なくてもいいものが増えるほど、生活はかなり自由になる。金もそれほど必要なくなるし、刺激を探し回る必要もなくなる。

何より、日常の大部分をそのまま快楽として使える。

考えてみれば、かなり贅沢な状態である。

快楽を増やすより、快楽を感じられる状態を作る

だから、わたしが快楽主義者として追求したいのは、強い刺激を大量に集めることではない。普通の刺激から、できるだけ多くの快楽を受け取れる状態を維持することだ。

幸福追求人として考えても、結論は同じになる。

幸福そうな生活を外側に作るよりも、今ある生活を実際に幸福だと感じられる側を整えたい。

何を追加すればもっと楽しくなるのか、と考えるよりも、どうすれば今あるものをもっと気持ちよく感じられるのか。そちらを考えたい。

外側を豪華にしていく方法には際限がない。しかし、受け取る側が変われば、同じ世界でも感じ方そのものが変わる。

そう考えると、本気で快楽や幸福を追求する人間ほど、最終的には案外地味なところへ戻ってくるのではないかと思う。

少なくとも、今のわたしはそうなっている。

本物の快楽主義者は、地味に生きる。

今のところ、そんな仮説である。

その状態を保つために、食事や断酒、肉体労働をどう組み合わせているかは、『借金455万円の生活を「至福」に変えた、六つの習慣』にまとめている。

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