分からないものを、分かったことにしない――わたしにとっての「無知の知」

霧の先へ分かれる夜の道路を歩道橋から見つめる人物 生存戦略

様々な経験をし、いろいろな立場を通り、それについて文章を書くことを続けているうちに、「無知の知」という言葉について考えるようになった。

簡単に言えば、以前よりも物事を明言しづらくなっている。

何かについて「これが正しい」「こうするべきだ」と言い切ろうとすると、以前にはなかった引っかかりを感じる。

何も分からなくなったわけではない。むしろ細かく考えるようになった結果、「ここまではかなり言えそうだが、この先は分からない」という境界が見えるようになった、と言った方が近い。

振り返ってみれば、この感覚自体は最近生まれたものでもない。

無限の波紋を作り始めた頃にはすでに、自分と他人はまったく違う条件で生きている、という認識がわたしの中にはあった。

だから、このブログも何かの成功法則を教えたり、わたしの生き方を人に勧めたりする場所にはしなかった。わたしの身体や生活で起きたこと、そこから何を考えたのかを書き、それを読んだ人がどうするかは、その人が決めればいい。

このブログの考え方をまとめた「CORE ── 無限の波紋の根本思想」にも、ここは成功法則を教える場所ではない、自分の考えを他人へ押しつけるつもりもない、といったことを書いている。

ただ、なぜ自分がそういう発信の形を好むのかを、以前はここまで明確には言語化できていなかった。

最近になって、食事、酒、働き方、医療、孤独、結婚、幸福といったものについて考え続ける中で、以前から持っていた感覚が「無知の知」という言葉とかなり近いところにあるのではないかと思うようになった。

自分にとって正しかったことを、他人へ移す

よくある考え方として、「自分が正しいと思っていても、それを他人に押し付けてはいけない」というものがある。それ自体に異論はない。

ただ、今わたしが考えていることは少し違う。

正しいとしても押し付けてはいけない、というより、他人に適用しようとした時点で、その理論が本当に正しいのかどうか自体が怪しくなる。

たとえば、わたしは長い間、一日一食を試してきた。自分の生活では、それによって身体が軽くなり、仕事をしやすくなった時期もある。

だからといって、「人間は一日一食にするべきだ」とまでは言えない。

三食に戻して体調が安定した人なら、「やはり三食食べるのが基本だ」と考えるかもしれない。それも本人の経験としては本当なのだろう。

問題は、そこから先である。

「自分にはこれが合った」と「だからあなたにもこれが合う」の間には、かなり大きな距離がある。身体も生活も違う以上、主語を変えた時点で同じ話ではなくなる。

添加物の話なども分かりやすい。

加工食品を減らし、添加物を避けるようになって体調が良くなった人がいる。その経験まで否定する必要はない。

しかし、そこから「添加物は毒だ。みんな避けるべきだ」となると、一気に話が広がる。

改善した原因は本当に添加物だけだったのか。同時に食事全体が変わった影響はなかったのか。その人に起きたことが、別の人にも同じように起きるのか。考え始めると、最初の断言ほど単純な話ではなくなってくる。

自由に生きた方がいいのか

働き方についても同じである。

毎朝満員電車に揺られ、会社へ行き、上司に管理され、決められた時間働く。そこから抜け出して独立した人が、

「いつまで社畜なんてやってるんだ」 「会社を辞めて自由に生きた方がいい」

と言う。

本人にとっては、本当にその通りだったのかもしれない。会社員生活では苦しく、独立してから人生が楽しくなったのなら、「会社を辞めてよかった」という結論はかなり強く持てる。

ただし、その経験をそのまま別の人へ移すことはできない。

予定から仕事探し、収入管理まで全部自分でやることを自由と感じる人もいれば、そこに強い負担を感じる人もいる。毎月決まった給料が入り、やるべき仕事がある程度決められている方が楽な人もいる。

そういう人にとっては、外から見ると窮屈に見える「レール」の方が、実際には快適なのかもしれない。

逆も同じで、独立して苦労した人が「自由業なんて幻想だ。普通に会社員をやるのが一番だ」と結論づけたとしても、それが次の人にも当てはまるとは限らない。

結婚や子供についても、似たようなことを感じる。

結婚して幸福になった人もいれば、離婚して自由になった人もいる。子供を持ったことで、それまで知らなかった幸福を知る人もいれば、子供を持たない人生に満足している人もいる。

「人は結婚した方がいいのか」「子供を持つべきなのか」と、そこまで主語を大きくしてしまうと、わたしには正しさを決められる気がしない。

結婚一つ取っても、相手が変わればほとんど別の人生になる。今うまくいっている関係が十年後も同じとは限らないし、今一人でいることが最善だと思っている人の考えが、将来変わらない保証もない。

条件を絞ればある程度の予測はできても、そこから万人向けの答えを作るのは難しい。

身体のことは、さらに分からない

身体や治療の話になると、さらに難しくなる。

現代医療、西洋医学、東洋医学、自然療法。食事でも、ベジタリアン、カーニボア、低糖質、高糖質、一日一食、三食と、様々な考え方がある。

どれかで体調が改善すると、その理論に世界全体を説明させたくなる。

人間は本来肉を食べるべきだ。植物中心の方がいい。薬は対症療法にすぎない。科学的根拠の薄いものを信用すべきではない。

一つの理論ですべて説明できれば分かりやすいし、美しい。わたし自身も、そういう説明には惹かれる。

ただ、現実を見ていると、どうもそこまで綺麗には収まらない。

この範囲ではかなり説明できるのに、条件が変わるとうまく説明できなくなる。ある人には効いたものが、別の人にはそうでもない。そういうことが普通に起きる。

さらに時間軸の問題もある。

短期では悪化したものが、その後改善することもあるし、反対に、始めた頃は調子が良かったのに、長く続けているうちに問題が出ることもある。

いわゆる「好転反応」という言葉も、その難しさをよく表していると思う。

何かを始めた直後に体調が悪くなった。それが本当に良くなる途中の一時的な反応である場合もあるだろうし、単純にその方法が合っていないだけかもしれない。

「悪化したのは好転反応だ」と何でも説明できるようになれば、その理論は何が起きても正しいことになってしまう。かといって、少し悪くなっただけで即座に失敗と判定すれば、それもまた早すぎるかもしれない。

結局、どこまで見れば判断できるのかという問題が残る。

数日や数週間なら、自分の中である程度比較することもできる。しかし、一年、十年となれば話が変わる。

その間には年齢も仕事も環境も変わっていく。同じ自分を二人用意して、一方にはこの食事を、もう一方には別の食事を十年間続けさせることもできない。

人生は一回しかない。

丁寧に観察したところで、自分で検証できる範囲には限界がある。

昔のわたしなら、かなり口を出していた

こうした考え方は、文章を書くときだけではなく、実際の人との接し方にも影響している。

以前のわたしなら、肉親が毎日酒を飲み、煙草を吸い、加工食品をよく食べていれば、かなり普通に持論を展開していたと思う。

一日三食を当然だと思っている人や、「肉は身体によくない」と考えて菜食にこだわっている人に対しても、「いや、それは違う」と言いたくなったはずである。

さらに、その人が肺や胃などの大きな病気になれば、

「だから言っただろう」 「生活習慣が原因なんじゃないか」 「これで懲りただろうから、酒や煙草はやめた方がいい」

くらいのことを言っていたと思う。

今はかなり違う。

そもそも、その病気が何によって起きたのかを、わたしがどこまで断定できるのか分からない。

酒や煙草のように、健康上のリスクがかなり明確になっているものもある。それでも、ある人が肺がんになったとして、その人のその癌が何によって起きたのかを、わたしが外から完全に特定できるわけではない。

ましてや食事回数や特定の食品、加工食品、肉、野菜といった話になれば、なおさら単純ではない。

自分の中では「これが影響したのではないか」と思うことがあっても、それはあくまで自分の推測である。

だから今なら、自分の中で原因らしきものが見えた気がしても、求められていない限り、基本的には何も言わないと思う。

黙っているのは薄情なのか

これは、ある意味では薄情な態度なのかもしれない。

健康について強い考えを持っている人からすれば、家族が毎日酒を飲み、煙草を吸い、自分が身体によくないと考えているものを食べ続けているのを、何も言わずに見ている方がおかしいだろう。

「大切な人なら止めるべきだ」 「病気になってからでは遅い」 「危険だと分かっているのに、黙って見過ごすのか」

そう考える人の気持ちは分かる。以前のわたし自身が、かなりそちら側だった。

しかも多くの場合、それは支配したいからではなく、善意から来ている。

自分には危険が見えている。相手にはそれが見えていない。だったら教えてあげた方がいいし、できればやめさせた方がいい。

大切な人なら、なおさらそう思う。

ただ、今のわたしは、その「自分には正解が見えている」という部分そのものを以前ほど信用しなくなった。

さらに言えば、健康については価値観の問題もかなり大きい。

健康に強い関心を持っている人からすると信じにくいかもしれないが、「酒を飲めないくらいなら、多少寿命が縮んでも構わない」と本気で考えている人はいる。

健康長寿になれるとしても、好きなものを食べられず、好きな酒も飲めず、楽しみを削り続けるのであれば、何のために生きているのか分からない。

そういう考えを、一時的な誘惑ではなく、自分なりの人生観として持っている人も意外と多い。

わたし自身は、今のところかなり逆の側にいる。

酒を飲む一晩の快楽よりも、身体が軽く、頭が動き、日常そのものを快適に感じられる状態の方を選びたい。

快楽を捨てるためではなく、日常から受け取れる快楽を守るために酒を外した。この判断については、「本物の快楽主義者は、地味に生きる」に書いた。

しかし、それはわたしが人生の中で何を重く見ているかという話でもある。

仮に、ある生活習慣が健康に悪いことをかなり高い確度で知っていたとしても、そこから「だからその人もやめるべきだ」とまでは言えない。

その人は、健康寿命を最大化することより、今日酒を飲むことを大切にしているのかもしれない。

それを外から見て愚かだと思うことはできる。

ただ、その人の人生においても本当に間違いなのかとなると、わたしには分からない。

健康上の正解が分かったとしても、人生の正解まで分かったことにはならない。

善意そのものを否定しているわけではない。ただ、自分の願望を「他人のため」という正義へ変換しない。この問題については、「完全に善良に生きることを諦めたら、ずいぶん気楽になった」にも書いた。

ここまで考えるようになってから、善意で他人を正そうとすることは一切しなくなった。

黙って見過ごしていると言われれば、そう見えるのかもしれない。

ただ、わたしとしては無関心になったというより、他人の人生について自分が分かっている範囲を、以前よりかなり狭く見積もるようになっただけである。

自分については、かなり強く決める

一方で、自分の人生まで曖昧にするつもりはない。

酒については、今のわたしは飲まないと決めている。

だからといって、誰かに「酒はやめた方がいい」と勧めているわけではない。

最近はさらに、習慣的に酒を飲む人とは深く関わらない、と決めた。

わたしにとって、酒が生活や身体へ与える影響はかなり大きく見えており、自分の生活をどう作るかを考えた結果として、今はその距離感が一番合っていると判断したからである。

ただ、それもあくまでわたし自身の選択でしかない。

「飲酒習慣のある人とは深く関わらない方がいい」と他人に勧めたいわけではないし、誰かが酒を飲み続けることを止めたいわけでもない。

わたしは、自分の人生について現時点ではこれが一番いいと思う道を選んだ。ただそれだけである。

それを永遠の真理として信じているわけではない。現時点の条件を観察し、使える可能性が高いものを選んでいる。この扱い方については、「わたしは、究極的に言えば何も信じていない」にまとめている。

ここは、他人について慎重になることとは矛盾しない。

むしろ自分については、自分の身体も経験もある程度知っている。結果が悪ければ、自分で引き受けて修正もできる。

だから強く決められる。

しかし、他人について同じことを言おうとすると、急に情報が足りなくなる。

「わたしはこうする」までは言える。

でも、「だからあなたもこうした方がいい」となった瞬間、根拠の強さはかなり落ちる。

自分について得た結論には、最初から「自分」という条件が入っている。それを外して他人へ持っていけば、見た目は同じ理論でも、実際にはかなり別のものになっている。

勝手に生きればいい

無限の波紋では、基本的に何かをおすすめしない。

自分が何をして、どうなったのか、そこから何を考えたのかを書く。かなり強く言い切ることもあるが、その結論をそのまま人間全体へ広げることはしない。

このブログを作り始めた頃から、感覚的にはずっとそうだった。

今回、それが「無知の知」という言葉とつながった。

経験が増え、文章を書くために一つずつ考えていくほど、何でも分かるようになるのではなく、「ここから先は分からない」と感じる場所が増えてきた。

以前なら、そのまま一つの答えにまとめていたかもしれないが、今は無理にまとめなくてもいいと思っている。

わたしは自分の人生について、自分で決める。

あなたは、あなたで勝手に生きればいい。

突き放しているように見えるかもしれない。

薄情だと思われることもあるかもしれない。

それでも今のわたしにとっては、これがかなり自然な結論である。

他人の自由を尊重するからだけではない。

他人の正解を決められるほど、その人の身体も、価値観も、その人がこれから生きる人生も、わたしには分からない。

分からないものを、分かったことにしない。

今のわたしにとって、「無知の知」という言葉は、そんな感覚にかなり近い。

その後、知らない専門用語を前にして一度は権威へ引っ張られながら、名前を外して具体的な主張まで戻した実例ができた。「形而上学」と言われて調べたら、むしろそっちが崩れたに、その過程を書いている。

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