成功したときだけ「俺たち」になり、都合が悪くなると「あいつ」になる

光の中に立つ一人の野球選手と、その成功へ青い線でつながろうとする群衆 生存戦略

大谷翔平が活躍すると、「日本人の誇り」という言葉をよく見かける。

大谷がすごい。それは分かる。世界最高峰の舞台で歴史的と言っていいことをやっているのだから、選手として驚異的なのは間違いない。

同じ日本で生まれ育った人間が海外で活躍しているのを見て、うれしくなる気持ちも分かる。

ただ、「日本人の誇り」という言葉を見るたび、わたしは少しだけ引っかかる。

大谷がホームランを打つために、わたしは何もしていない。160キロを超える球を投げるためにトレーニングしたわけでもなければ、毎日の食事を管理したわけでもない。当然、彼の才能にも努力にも、わたしは一切関与していない。

共通しているのは、ただ日本人であるということだけだ。

それなのに、大谷が成功すると、いつの間にか「彼の成功」が「われわれの誇り」に変換される。

成功したときだけ、境界線が変わる

ここで、逆のことを考えてみる。

もし海外で日本人がとんでもない犯罪を犯したとして、そのニュースを見た人が、

同じ日本人なのだから、これはわれわれ全員の責任だ

と考えるだろうか。

おそらく、ほとんどの人はそう考えない。「そいつがやったことだ」で終わる。

「日本人として恥ずかしい」と感じる人はいるかもしれない。ただ、それでも、その犯罪そのものを自分の実績として引き受ける人はいない。

ところが成功すると、境界線が少し変わる。

失敗した日本人は「あいつ」なのに、成功した日本人は「われわれ」になる。

かなり不思議な話である。

さらに考えていると、もう一つ気になることが出てきた。

これはわたしの勝手な推測であり、実際にそういう傾向があるのかを調べたわけではない。

「日本人の誇りだ」と強く感じる人ほど、逆方向の出来事が起きたときには、その人物を強く切り離そうとすることもあるのではないか。

日本人が世界的な活躍をすれば、「同じ日本人だ」という共通点が重要になる。

ところが、日本人が凶悪な犯罪を起こしたり、海外で大きな問題を起こしたりすると、「日本の恥だ」となる。さらに極端になると、「こんなことをするのは日本人ではない」「本当に日本人なのか」「在日なのではないか」といった言葉まで出てくることがある。

もし同じ人間の中でこうした反応が起きているのだとすれば、わたしにはこちらの方が興味深い。

成功した人間に対しては、「日本人」という共通点を使ってその人をこちら側へ引き寄せる。

都合の悪い人間が出てくると、今度はその共通点を弱め、「普通の日本人とは違う」と距離を取る。場合によっては、そもそも同じ集団に属していることまで疑い始める。

つまり、結果を見てから、

自分が気持ちよくいられるように「われわれ」の範囲そのものを動かしている

とも考えられる。

成功したときには境界を広げ、都合が悪くなると境界を狭める。

もちろん、本当にそうした心理が働いているのかは分からない。ただ、「日本人の誇り」という感情そのものより、わたしにはこの境界の伸び縮みの方が面白く見える。

かなり乱暴に書けば、

他人の成功 × 同じ属性 = 俺たちの成功

なのに、

他人の失敗 × 同じ属性 = そいつ個人の問題

になりやすい。

都合によって「同じ」の範囲まで変わる

似たような構図は、ほかの場面にもある。

たとえば大学でも、似たようなことはありそうだ。

卒業生が世界的な賞を取ったり、大きな成功を収めたりすれば、「うちの大学の出身だ」「同じ大学の人間として誇らしい」と距離が一気に近くなる。

ところが、同じ大学に在籍していた人物が大きな不祥事を起こしたらどうだろう。

「あいつは中退だろ」

「卒業生ではない」

「あの学部は少し違う」

そんなふうに、それまで気にしていなかった細かな違いが、急に重要になることもある。

成功したときには「同じ大学」という大きなくくりだけで十分だったのに、都合が悪くなると、「どこまで同じなのか」を詳しく見始める。

会社でも似たことは起こりそうだ。

社員が外部で大きな成果を出せば、「うちの会社からこんな人間が出た」と会社全体の成功として語られる。

ところが不祥事が起これば、「一部の社員が勝手にやったことだ」「すでに退職している元社員だ」と、その人物と会社との距離をできるだけ広げたくなる。

趣味やファンの集まりでも同じかもしれない。

仲間の一人が成功すれば、「さすが俺たち」となる。

問題を起こした人間が出れば、「あんな奴は本当のファンではない」「われわれとは違う」と切り離す。

表面だけ見れば、それぞれ正反対の反応に見える。

しかし、もし根底にあるのが「自分が属している集団を、できるだけ良いものとして見ていたい」という働きだとすれば、むしろ同じ処理なのかもしれない。

都合のいい人物は取り込み、都合の悪い人物は切り離す。

そう考えると、相手が変わっているというより、その都度こちら側が「われわれ」の境界を引き直しているようにも見える。

わたしが面白いと思うのは、自分がどこまでを「われわれ」と感じるのかが、最初から固定されているわけではなく、相手の結果によって変わっている可能性があることだ。

大谷がすごいことと、日本人がすごいことは別である

大谷の場合、さらに興味深い。

彼は日本人ではあるが、日本人男性の典型的な身体を持った選手ではない。身長も体格も運動能力も、日本人全体の中で見ればかなり極端な側にいる。

つまり、「一般的な日本人の身体条件を持った人間が、その条件のまま世界を圧倒した」という話ではない。

日本という集団の中から、とんでもない身体能力を持った一人の人間が出てきた。そして、その一人が世界最高峰まで到達した。

それ自体が十分すごい。

ただ、その事実から「日本人はすごい」という結論まで持っていくなら、少し話が変わる。

身長230センチの日本人が一人現れたからといって、日本人が長身の民族になるわけではない。同じように、大谷翔平という極端な才能を持つ個人が存在することと、日本人一般の能力は別の話である。

それでも、わたしたちは簡単に接続する。

「大谷がすごい」から、「日本人がすごい」へ。さらに、「日本人である自分もうれしい」へ。

「日本人の誇り」が語っているもの

ここまで来ると、「日本人の誇り」という言葉は、大谷について語っているようでいて、実はそれを言っている側の人間についてかなり多くのことを語っている。

人は、自分では何も成し遂げていなくても、所属集団を通じて他人の成功を少しだけ自分のものとして感じられる。

そして都合が悪くなると、同じ人物との距離を広げることもできる。

成功したときだけ「俺たち」になる。

そう考えると、「日本人の誇り」という何気ない一言も、かなり人間らしい現象に見えてくる。

自分の感情や価値判断を、集団や地球そのものの側にあるものとして扱う構造については、「「地球にとって良い」は、本当に地球の価値観なのか」でも考えた。

また、わたしたちが他人そのものではなく、自分の頭の中で作った他人を見ているという考え方は、CORE――無限の波紋の根本思想の「他人は存在しない」につながっている。

わたし自身は、大谷翔平を見て「日本人として誇らしい」とはあまり思わない。

ただ、

とんでもない人間がいるな

と思う。

逆に、とんでもない犯罪をした日本人を見ても、意味はまったく逆だが、「とんでもない人間がいるな」と思う。

どちらの場合も、その人がしたことを、同じ日本人であるという理由だけで自分へ接続する感覚がない。

成功したからといって、わたしの価値が上がるわけではない。犯罪をしたからといって、わたしの価値が下がるわけでもない。

だから、成功者をこちら側へ引き寄せる必要もなければ、都合の悪い人間をあちら側へ押し出す必要もない。

その人は、その人である。

その距離感くらいが、わたしにはちょうどいい。

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