わたしは、自由意志は存在しないと考えている。ただし、「意志が存在しない」と言っているわけではない。
腹が減れば食べたいと思う。勉強したければ勉強する。腹が立てば相手に何か言いたくなる。人間の中には普通に意志が生まれるし、その意志によって行動も変わる。
わたしが疑っているのは、その意志そのものを、身体、環境、記憶などの因果とは無関係な「わたし」が自由に作っているのか、という部分である。
そして、この考え方を犯罪にまで広げると、かなり面倒な問題が出てくる。
自由意志がないなら、犯罪者は悪くないのか。悪くないのなら、罰する必要もないのだろうか。
「意志がある」と「自由意志がある」は別である
たとえば、愛しているペットを飼っている人に、こう言ったとする。
そのペットを今すぐ傷つけてください
身体的には可能である。手も動くし、道具も使える。しかし、おそらく多くの人にはできない。
「そんなことは絶対にしたくない」という意志が強烈に存在するからだ。
ここで、「傷つけない方を自分で選んだ。だから自由意志はある」と説明することもできる。
だが、わたしが疑っているのはそこではない。
「傷つけたくない」という気持ちも、ペットへの愛情も、その人の記憶も価値観も何も変えず、そのまま傷つける方を選べるだろうか。
もし実際に傷つけるとすれば、「自由意志が存在することを証明してやる」という新しい動機が生まれたとか、巨額の報酬を提示されたとか、別の誰かを救うにはそうするしかないとか、何か別の理由が必要になるはずだ。
選択が変わったのなら、その前に何か別の原因が加わっている。
では、「傷つけたくない」という意志は誰が選んだのだろう。
自分でペットを愛する人間になろうと決めたのだろうか。
さらに遡れば、自分の性格、親、育った環境、過去の経験、身体の特性、何に恐怖や快感を覚えるかを、どこまで自分で選んだのか。
こう考えていくと、わたしには自分自身さえ一つの現象のように見えることがある。
もちろん、むちゃくちゃ腹が減っていても、健康のために食べないと決めることはできる。その意味での自由を「自由意志」と呼ぶなら、自由意志は普通に存在すると思う。
ただ、その場合にも、「食べたい」という意志と「健康のために我慢したい」という別の意志があり、その場では後者が優勢になったと考えることもできる。
では、なぜその人には「健康のために我慢したい」という意志が強く生まれたのか。
そこまで進むと、また同じ場所へ戻ってくる。
つまり「自由意志はあるか」と議論するとき、片方は「自分の欲求に従って行動できるか」を話し、もう片方は「その欲求自体を自由に作ったのか」を話していることがある。
これでは、いつまで経っても話が噛み合わない。
わたしが否定しているのは、後者の意味での自由意志である。
「意志が強い」とは、何を見て言っているのか
この話を考えていると、「意志が強い」「意志が弱い」という評価にも違和感が出てくる。
毎日十時間勉強する人は「意志が強い」と言われるが、毎日十時間ゲームをする人にはあまり使われない。
外から見えるのは行動の結果だけであり、本人がどれほど苦痛を感じ、興味や恐怖、不安のどれに動かされていたのかまでは分からない。
それでもわたしたちは、その結果を見て「意志の強さ」という名前をつける。
この言葉については、「意志が強い人」とは、いったい何を見てそう言っているのかで詳しく分解した。
日常的な努力でさえ、人を動かした原因は外から簡単には分からない。
まして犯罪を、「悪い人間が悪い方を選んだ」の一言だけで説明できるのだろうか。
犯罪者は、なぜそれができたのか
犯罪を犯した人間を見ると、わたしたちは普通、
なぜそんなことをした
と考える。
しかし、わたしにはもう一つ別の疑問が浮かぶ。
なぜ、その人にはそれができたのだろう。
わたしにはできない犯罪がたくさんある。
「悪いことだと分かっているけれど、善人だから我慢している」というより、そもそも行動の候補としてほとんど浮かんでこないものもある。
ここで一度、自分自身に聞いてみると分かりやすい。
あなたは、我慢して凶悪犯罪を犯さないようにしているだろうか。
人を殺したいけれど毎日耐えている。誰かを傷つけたいけれど理性で必死に押さえ込んでいる。
多くの人は、そうではないと思う。
そもそも、そんな欲求がほとんど存在しない。
少なくともわたしは、凶悪犯罪を犯さずに生きるために、毎日何か特別な努力をしている感覚はない。
では、その「犯罪を犯したくならない自分」は、わたしが努力して作ったものなのだろうか。
自分でそういう人間になろうと決め、欲求の中身や恐怖の感じ方、他人への共感、何に快感を覚え何を苦痛に感じるかまで、一つずつ設計したわけではない。
一方で、それを実行できる人がいる。
あるいは、普通の人にはほとんど存在しない強い衝動を抱え、それを抑えながら生きている人もいるかもしれない。
その違いを「人間性」の一言で終わらせずに遡れば、気質、家庭環境、教育、身体、交友関係、過去の成功や失敗、経済状態、そのとき置かれていた状況など、無数の原因があるはずだ。
もちろん、わたしには特定の犯罪者がなぜ犯罪を犯したのかは分からない。
同じ犯罪でも、そこへ至る原因は一人ひとり違うだろう。
ただ、本人がゼロから自分自身を設計し、その結果として犯罪者になったわけではないことだけは、かなり確かだと思っている。
そう考えると、怒りより先に、
「この人はどんな経路を通って、ここまで来たのだろう」
という疑問が出てくる。
極端に言えば、少し気の毒に見えることすらある。
本人が自分で選んだわけではない性質や欲求によって、普通の人には必要のない我慢を要求される。そして、それを抑えられずに他人を傷つければ、当然ながら社会から大きな制約を受ける。
普通の人は、そもそもその戦いをしていない。
そう考えると、「犯罪を犯さない自分」と「犯罪を犯した人」の差を、すべて本人の人格や意志の強さだけに帰すことに、わたしは違和感を覚える。
これは犯罪による被害を軽く見るという話ではない。
被害者が受けた傷は、加害者に原因があったと分かっても消えない。
加害者が気の毒に見えることと、加害者を自由にしていいことも別である。
原因があることと、野放しにすることは別である
自由意志がないなら犯罪者を罰する必要もない、と考えたくなるかもしれない。
しかし、その人を社会へ戻せば再び誰かを傷つける可能性が高いのであれば、社会は止めなければならない。
自由意志がないからといって、刃物が刺さらなくなるわけではない。
危険な人間から他人を守るために、自由を制限する。必要なら社会から隔離する。
その理由は残る。
ただし、意味は少し変わる。
「お前は悪を自由に選んだ。だから苦しめ」ではなく、
あなたがどうしてこうなったのかは完全には分からない。それでも、このまま外へ戻せば誰かが危険なので、今は自由を制限する
という話に近くなる。
悪人へ苦痛を返すためではなく、次の被害を止めるために介入する。
刑罰を重くすれば、未来が良くなるとは限らない
では、刑務所の中で苦しませることには意味があるのだろうか。
不利益を受ければ、次から同じ行動を避ける人はいる。だから刑罰が、未来の行動を変える原因になること自体はあると思う。
しかし、「苦しければ苦しいほど再犯が減る」とは限らない。
米国の国立司法研究所による研究の整理でも、刑罰の重さより、捕まる可能性の高さの方が犯罪の抑止と強く関係し、刑務所での経験が再犯を悪化させる可能性も指摘されている。
社会への憎しみを増やし、犯罪の技術や人間関係まで持ち帰らせるなら、ただ苦しませることは再発防止として失敗である。
目的が復讐ではなく、社会を守り、次の犯罪を減らすことなら、考えるべきことも変わる。
どの程度の自由を制限するのか。何を学ぶ機会を作るのか。出所後に住む場所や仕事がなければ、何が起きるのか。本人が同じ行動へ戻らないために、どの原因を変える必要があるのか。
刑罰は、「悪い人間へどれだけ苦痛を与えるか」ではなく、「次の被害をどう減らすか」という制度の問題になる。
反省は、自分を責めることではなく原因を調べることになる
ここまで考えると、「反省」という言葉の意味も変わってくる。
一般に反省には、
あのときは悪い方を選んだ。本当は正しい方も選べたのに
という感覚がかなり含まれている。
しかし、あの時点の条件がすべて同じなら、同じ行動が出たと考える方が、わたしには自然である。
では、反省は無意味なのか。
そうではない。
反省したこと自体が、次の自分を変える原因になる。
あのとき何に反応したのか。何が引き金になったのか。次に同じ状況が来たとき、同じ行動が出ないように何を変えればいいのか。
反省は自己非難ではなく、原因分析に近くなる。
過去の自分を罰するためではなく、未来の自分を変えるために過去を見る。
自由意志を否定しても、責任は消えない
「自由意志がない」という考えそのものが、人間の行動を変える可能性もある。
「どうせ自分のせいではない」と考えることで、それまで罪悪感によって止まっていた人が、悪いことをしやすくなるかもしれない。
その場合、「自由意志がない」という思想そのものが、新しい原因になる。
だから、「自由意志がない。したがって責任もない」で終わらせることはできない。
人間が原因によって動くなら、教育、法律、刑罰、家庭環境、貧困などを、どのように変えれば望ましくない行動が減るのかを、むしろ今まで以上に考える必要がある。
ある環境で犯罪が増えたなら、「最近の人間は倫理観がない」で終わらせず、何が変わった結果、その行動が増えたのかを見る。
自由意志を否定すると、責任という概念が消えるように見える。
しかし、わたしには少し違って見える。
薄くなるのは、次のような責任である。
お前は悪い人間だから苦しめ
一方で、残るのは次のような責任である。
この行動によって被害が出た。次の被害を止めるために、ここへ介入する
責任が消えるのではない。
責任を負わせる理由が、復讐から原因への対処へ変わる。
すると、偉そうにすることに違和感を覚える
そして、ここまで考えると、犯罪者だけの話ではなくなる。
感じの悪い店員を見たとき。仕事のできない人を見たとき。勉強を続けられない人を見たとき。酒をやめられない人を見たとき。
「なんでそんなこともできないんだ」と思う前に、
「なぜわたしにはできて、この人にはできないのだろう」
という問いが一つ増える。
犯罪について考えたときと同じである。
わたしが普通にできていることの中には、そもそも我慢する必要がなかったものもある。
強烈な欲求と戦い、それを克服した結果として今の自分があるわけではないことも多い。
ただ自然にできた。
そもそも、それほど苦ではなかった。
それを後から「自分は意志が強い」「自分はまともな人間だ」と解釈しているだけかもしれない。
自分が自然に身につけた能力を、自分だけの功績だと思っていた部分も少し揺らぐ。
すると、偉そうにすることに違和感を覚える。
わたし自身、人生を振り返ると、かなり運が良かったと思っている。人に気に入られやすかったこともある。自然にできたこともあり、それが次の機会を呼んだことも何度もある。
しかし、その性質を最初から自分で設計したわけではない。
犯罪を犯したくならないことも、何かを自然に続けられることも、人から好かれやすいことも、そのすべてを自分の手柄にはできない。
自分もまた、無数の原因の中から一時的に生まれている一つの現象なのかもしれない。
そう考えると、自由意志がないという考えは、わたしにとって「責任なんてどうでもいい」という思想にはならない。
むしろ、自分にも他人にも、なぜ、この結果が出たのかを見る癖を強くする。
原因が分かれば、次の原因を変えられるかもしれない。
自由意志がないことと、何をしても同じであることは別だ。
この前提については、CORE――無限の波紋の根本思想にもまとめている。
この記事を書いたあと、「形而上学的な自由意志までは否定できていない」と指摘された。そこで形而上学そのものを調べ、難しい言葉を具体的な主張まで戻して考えた過程は、「形而上学」と言われて調べたら、むしろそっちが崩れたに続けて書いた。
参考:National Institute of Justice, “Five Things About Deterrence”


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