AI時代に人間にしかできないこと。それはAIを使わないこと

巨大な青いAIの光を背に、白紙へ自分の手で文章を書く人物を描いたアート 生存戦略

AIが進化するほど、「人間にしかできないことは何か」という話をよく見かけるようになった。

文章を書くこと。絵を描くこと。人の気持ちを理解すること。与えられた問題を解くのではなく、そもそも何を問題として考えるべきかを決めること。

AIに置き換えられにくい能力を探し、そこへ人間の価値を残そうとする考え方である。

ただ、AIが今後も進化していくことを前提にするなら、この探し方には無理がある。

少し前まで、何を解くべきかを決めるのは人間の仕事だと言われていた。しかし今では、課題の分解も、目的の見直しもAIに相談できる。

どこかに「ここから先だけは永遠に人間の領域」という線を引いても、AIが進化するたびに、その線を引き直すことになる。

では、人間の価値も一緒に小さくなっていくのだろうか。

ここで一度、「価値」を二つに分けた方がいい。

社会から見た価値と、自分がその人生に感じる価値は、同じではない。

目的を分けないから、議論が噛み合わない

この記事を書いているとき、生成AIをあえて使わない人たちを扱った動画を見た。

動画では、AIを使わずに情報を調べる人と、ChatGPTを使う人を比較していた。当然、答えへ到達する速さではChatGPTが勝つ。

しかし、ここでは目的が分かれていない。

目的が「正しい答えを早く知ること」なら、AIを使う方が合理的である。一方、目的が「自分で情報を探し、考える過程を経験すること」なら、速さで比較しても意味がない。

これは、サッカーをしている人へ、

「手があるのに、なぜボールを持たないの? 馬鹿なの?」

と言っているようなものである。

反対に、バスケットボールをしている人へ、

「足があるのに、なぜボールを蹴らないの? 馬鹿なの?」

と返してもいい。

どちらも、手や足の性能について争っているように見える。しかし実際には、最初から別の競技をしているだけである。

AIを使って最短で答えを得たい人と、自分で考える過程を経験したい人も同じである。目的もルールも違うのに、片方の基準でもう片方を採点するから、不毛な議論になる。

動画では、「GoogleマップにもAIが使われているのだから、AIを使っていないという主張はおかしい」という話も出てくる。

これも、「AIを使わない」という言葉の範囲を分ければいい。

すべての機械学習技術を生活から排除したいのか。それとも、自分で考えたり創作したりする部分を、生成AIへ代行させたくないのか。

本人が避けたいのが後者なら、Googleマップを使うこととの間に大きな矛盾はない。

情報収集の速度、創作の満足感、AIが組み込まれたサービス、環境負荷、雇用、さらには人類滅亡の可能性まで、すべてを「AIは良いか悪いか」という一つの問いへ入れる。これでは議論が噛み合わない方が自然である。

無限の波紋では、こういうときに正解を一つ決めようとはしない。

何を目的にしているのか。何と何を比較しているのか。同じ言葉で、同じものを指しているのか。

そこを先に分ける。AIを使うかどうかも、目的が違えば選択が違って当然である。

何を目的にするかで正解が変わるという考えを、宗教戦争や麻薬戦争、国家とカルテルの暴力まで広げたのが、「この世に正解はない。何を目的にするかで答えは変わる」である。

このように、同じ言葉の中へ別のものを入れたまま議論すると、対立しているように見えて、実際には別の話をしていることがある。以前書いた「時間は存在しない」と言う前に、時間とは何かでも、時計で測る時間、主観的な時間感覚、物質とは独立した「時間そのもの」を分けて考えた。扱っているテーマは違うが、やっていることは同じである。

社会から見れば、成果で比較される

仕事や経済活動では、その人が加わることで結果がどう変わるかという見方は分かりやすい。

AIだけで十分な品質と速度を出せるなら、同じ作業を人間へ任せる理由は減っていく。人間が確認や修正を加えて品質が上がるなら役割は残るが、何も変わらないなら、その工程に人間を置く意味は薄い。

今は「AIを使える人間に価値がある」と言われている。しかし、その仕事自体をAIだけで処理できるようになれば、次に出てくるのは「AIを使えるか」ではなく、「そもそも、この人間は必要なのか」という問いである。

分析や判断までAIが担うようになっても、契約し、損失を負担し、権利や責任を引き受ける主体として人間は残るかもしれない。

ただし、ここまでは社会から見た価値の話である。

一人の人間が、自分の人生で何に価値を感じるかとなると、話はまったく変わる。

個人にとっては、完成物だけが価値ではない

たとえば、AIが自分より速く、上手く、読みやすい文章を書けるようになったとする。

文章を納品し、対価を受け取ることだけが目的なら、AIを使う方が合理的な場面は増える。

しかし、自分にとって文章を書く価値が、完成した文章だけにあるとは限らない。

考えながら言葉を探す。ぼんやりしていた考えが、一つの文章としてつながる。以前は説明できなかったことを説明できるようになる。

その時間自体が楽しい人にとっては、完成物だけを取り出して比較しても意味がない。

筋トレを考えると分かりやすい。

百キロの物体をA地点からB地点へ移動させることだけが目的なら、機械を使えばいい。しかし、目的が筋力をつけることなら、機械に全部運ばせた瞬間に目的そのものが消える。

ゲームも同じである。

ラスボスを倒したという結果だけが欲しいなら、開始直後にボタンを一回押せばエンディングまで進むゲームの方が効率はいい。

だが、何度か失敗し、考え、少しずつ操作に慣れ、ようやく勝つまでを消してしまえば、ゲームから得ていた面白さまでなくなる。

個人の人生では、負担が減ることと、価値が増えることは同じではない。

場合によっては、不便さの中に本人が求めていたものが含まれている。

AIは、自分でも気づいていない価値まで消せる

ここまでなら、「楽しみたいことにはAIを使わなければいい」で終わる。

しかし、実際にはもう少し厄介である。

人間は、自分が何によって満足しているのかを、必ずしも正確に理解していない。

本人は、完成した成果物さえ手に入ればいいと思っているかもしれない。ところが実際には、途中にあった試行錯誤や、少しずつ上手くなる感覚、自分の力で完成させたという満足感が、日々の充実を作っていた可能性がある。

それは、なくしてみるまで分からないこともある。

AIを使うようになり、仕事は速くなった。文章も整った。失敗も減った。時間まで余るようになった。

それなのに、以前ほど楽しくない。

便利になったはずなのに、生きている感じが薄い。しかし、自分でも何が消えたのかよく分からない。

AIは、わたしたちが「大切だから残しておこう」と自覚しているものだけを消すわけではない。

まだ自分でも価値があると気づいていない過程まで、効率化できてしまう。

文章を書くことが好きなのだと思っていたら、実は考え続けることが好きだったのかもしれない。

仕事で結果を出すことが好きなのだと思っていたら、難しい問題が少しずつ解けるようになる感覚を楽しんでいたのかもしれない。

だから、「何をAIに任せたいか」を先に頭の中だけで決めても、正しいとは限らない。

実際に任せてみて、自分の感覚がどう変わったのかを見る必要がある。

便利になり、毎日まで楽になったなら、その作業は任せればいい。反対に、完成物は良くなったのに以前より面白くなくなったなら、何かを一緒に消してしまった可能性がある。

わたしはAIを使う。それでも全部は渡さない

わたし自身、このブログや書籍、別名義で始めようとしている商売にAIをかなり使っている。

文章の重複を探す。論理の穴を出させる。デザインを作る。プログラムを書く。大量の情報から必要なものを拾う。

以前なら一人で扱えなかった範囲まで、一人のまま進められるようになった。この可能性については、「小さな商売実験のつもりが、これからの生き方まで見えてきた」にも書いた。

だから、AIを使わない方が人間らしいと言いたいわけではない。

反対に、AIが予想外の人物や展開を返してくること自体を楽しむなら、AIを使うことで初めて成立する遊びもある。実際に小説作りを試して分かったことは、「AIで小説を作り始めたら、思っていたより面白かった」に書いた。

面倒なだけの作業は、できるだけ渡したい。自分でやる意味を感じないことまで、苦労して抱えるつもりもない。

それでも、自分が何に引っかかったのか、何を面白いと思ったのか、どこで違和感を覚えたのかまで、最初からAIに決めてもらうつもりはない。

そこまで渡してしまうと、完成した文章は残っても、その文章を書こうと思った自分の時間が消える。

AIを使うか、使わないか。わたしにとって重要なのは、その二択ではない。

どこまで渡すと、自分がその行為から受け取っていたものまで消えるのか。

その境界を、自分の感覚で確かめることである。

AIを使わないという選択

AIを使えば十秒で終わる。それでも、自分でやる。

AIの方が上手く書ける。それでも、自分で書く。

AIへ聞けば答えが出る。それでも、まず自分で考えてみる。

成果と効率だけを基準にすれば、わざわざ不便な方を選んでいるように見える。しかし、自分にとっての目的が楽しさや成長、達成感にあるなら、こちらの方が合理的である。

面白いのは、「この部分ではAIを使わない方がいい」という判断案まで、AIに出させることができる点である。

AIへ目的を伝えれば、「自分で考える時間を残した方がいい」と提案することはできる。

しかし、その提案を受けたあとに、本当にAIを使わず、自分で考え、失敗し、その時間を過ごすのは人間側である。

AIは「ここでは私を使わない方がいい」と言える。

だが、わたしの代わりに、AIを使わない人生を送ることはできない。

だから、「AIを使わないこと」は人間にしかできない。

何をAIにやらせないのか

AI時代になると、「AIで何ができるか」という問いばかりが増える。

しかし、できることが増えるほど、もう一つの問いが重要になる。

何をAIにやらせないのか。

技術的に代替できることと、代替した方がいいことは違う。

完成物だけが欲しいなら、AIに任せればいい。自分で考えることを体験したいなら、自分で考える。自分で書くことが楽しいなら、AIより下手でも自分で書く。

その線引きに、全員共通の正解はない。

わたしにとって現実とは、世間が貼った評価ではなく、自分の身体と意識が実際に何を感じているかという自己感覚である。この考え方は、COREにまとめている。

AIを使う前より幸福になったのか。楽になったのか。それとも、便利になった代わりに、生きている感じが薄くなったのか。

最後に判断材料になるのは、やはりそこだと思う。

自分の人生の目的は、AIとの能力競争に勝つことではない。

AIにできることを探し尽くしたあとにも、自分がこの人生で何を経験したいのかという問題は残る。

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