「時間は存在しない」と言う前に、時間とは何か

時計機構と主観的な光の流れと宇宙の軸が重なる時間のイメージ 生存戦略

「時間は存在しない」「時間は脳が作り出した幻想である」。こういう言葉は、何となく深そうに見える。

わたし自身も、以前なら「そういう考え方もあるのか」と、そのまま受け取っていたと思う。しかし最近、老化について考えているうちに相対性理論まで話が広がり、そこから今度は別のところが気になり始めた。

その経緯は、「老化と相対性理論の意外な共通点」に書いている。

そもそも、その話で使われている「時間」とは何のことなのだろう。

これは、物理学や哲学にある個々の時間論を否定する話ではない。もっと手前の話である。

「時間は存在しない」という一文だけでは、何を否定したのか分からないのではないか、という話だ。

わたしたちは普段、何を見て時間を知っているのか

普段、わたしたちは普通に「三時間経った」「もう夕方だ」「一年経った」と言う。

そのとき、時間そのものを見ているわけではない。見ているのは、時計の針や数字、カレンダーの日付、太陽の傾き、外が暗くなったこと、季節の移り変わりなどである。

春になり、夏になり、木の葉が落ち、冬になり、また春が来る。そうした変化を手がかりにして、「これだけ時間が経った」と判断している。

時計の中身まで見ても同じである。振り子時計なら振り子の往復、クォーツ時計なら水晶の振動、原子時計なら原子に起きる一定の周期的な現象を利用している。

かなり乱暴にまとめれば、わたしたちは何かの変化を基準にして、別の変化を測っている。その比較によって得た経過を、日常では「時間」として扱っている。

ここまでは、特に不思議な話ではない。

ただ、この時点ですでに「時間」という一つの言葉の中に、違うものが入り始めている。

たとえば、時計で測る経過時間。本人が感じる時間の長さ。そして、物質や変化とは別に存在していると仮定される、「時間そのもの」のようなもの。

どれも「時間」と呼ばれるが、同じ話ではない。

「時間は存在しない」は、何を否定しているのか

誰かが、「時間は存在しない」と言ったとする。

そのとき、まず確認したい。その「時間」とは何なのか。

わたしが普段「三時間経った」と言うとき、宇宙のどこかに「時間」という透明な物質のようなものが存在し、それが三時間分流れていったと主張しているわけではない。時計を見たら三時間分進んでいた。その程度の意味である。

そこへ、「物質とは独立して流れる時間そのものは存在しない」と言われたとしても、もし否定している対象がそういう意味での「時間」なら、わたしは最初からそんなものについて話していない。

「時間は存在する」「いや、存在しない」と対立しているように見えて、実際には双方が別のものを「時間」と呼んでいるだけかもしれない。

だから、「時間は存在するのか」を考える前に、時間という言葉で、何のことを言っているのか。そこを決めた方がいい。

「時間は脳が作り出した幻想」という話

「時間は脳が作り出した幻想である」という表現もよく見かける。

この手の話のコメント欄などでは、「たしかに。楽しいことをしていると時間は一瞬で過ぎるし、退屈なときはすごく長く感じる」といった反応もよく見る。

ここは一度、分けた方がいい。

もしここでいう「時間」が、時間が流れていると感じる主観のことなら、それが脳の働きによって作られているという説明は理解できる。実際、同じ一時間でも、そのとき何をしているかによって長く感じたり短く感じたりする。

わたしが引っかかるのは、そこからさらに、時計で測る経過時間や、物理学で扱われる時間まで一気に「幻想」であるというところまで話を広げる場合である。

「時間をどう感じるか」と「外部で何が起きているか」は、同じではない。

空腹で感じ方が変わったら、料理そのものも変わったのか

たとえば、空腹のときに食べる料理と、満腹のときに食べる同じ料理では、感じ方が変わる。空腹ならとてもおいしく感じたものが、腹いっぱいの状態では大して魅力的に感じないこともある。

だからといって、同じ料理の成分や状態そのものが、こちらの腹具合に合わせて変化したとは普通考えない。変わったのは、料理を受け取る側の状態かもしれない。

高級ホテルでも似たことは起きる。長い間かなり不自由な環境にいた人が高級ホテルへ入る場合と、普段から豪邸に住み、一流ホテルにも慣れている人が同じ部屋へ入る場合では、感じる価値は大きく違うだろう。

片方には天国のように見えるかもしれないし、もう片方にはそれほど特別に見えないかもしれない。それでも、同じホテルの部屋を見ている。

同じものに触れても、受け取る側の状態によって感じ方は変わる。

人間とは、そもそもそういうものではないだろうか。

「楽しいと時間が短い」が示しているもの

それなら、「楽しいと一時間が短く感じる」という事実から、「だから時間は脳が作った幻想である」まで進むのは、少なくともそのままでは飛躍しているように見える。

むしろこの例から直接分かるのは、人間の時間感覚は、その人の状態によって変化するということである。

同じ部屋で、一人はゲームに夢中になり、もう一人は何もすることがなく退屈している。三時間後、一人は「もう三時間経ったのか」と言い、もう一人は「やっと三時間か」と言う。

しかし、二人の横に置かれていた時計は同じだけ進んでいる。

少なくともこの例だけを見るなら、違っているのは時計が刻んだ経過ではなく、それを経験している人間の感覚である。

むしろ、「楽しいと時間が短く感じる」という現象は、「人間は時間を正確に体感する装置ではない」という話として読むこともできる。

感じ方が変わったとき、何が変わったのか

これは時間に限った話ではない。

何かの感じ方が変わったとき、対象そのものが変わったのか。それとも、受け取っている側が変わったのか。ここを分けた方がいい。

人間の知覚は、身体状態や直前の経験、比較対象などに大きく左右される。空腹なら同じ料理でもおいしく感じやすいし、普段何を見ているかによって、同じ部屋への評価も変わる。

ならば、「時間が長く感じた」「短く感じた」という主観の変化だけを見て、そこから時計で測られる経過や、物理学で扱われる時間についてまで結論を広げるのは、慎重であった方がいい。

感じ方が変わったという事実だけから、感じている対象そのものが幻想であるとは言えない。

少なくとも、その二つをつなぐには別の説明が必要になる。

何も変化しない世界で、時間だけ流れるとは何なのか

ここから、さらに極端なことを考えてみた。

何も変化しない世界があるとする。物質の状態も変わらない。出来事も起きない。時計もない。太陽も昇らない。季節も変わらない。

完全に同じ状態のままである。

その世界について、「100億年が経過した」と言ったとする。

では、その世界の0秒後と100億年後には、何の違いがあるのだろう。

外部に別の世界があり、そちらの時計で100億年を測ることはできる。しかしその場合に確認できるのは、「外部世界では100億年分の変化が起きた。その間、こちらの世界には観測可能な変化がなかった」ということである。

そこへ、「しかし、こちらの世界にも100億年という時間そのものは流れていた」と追加するなら、今度は変化とは別に存在する「時間そのもの」を置く必要がある。

そこでまた疑問が出る。

その「時間そのもの」が存在する世界と、存在しない世界では、何が違うのだろう。

観測可能な違いが何もないのであれば、少なくともわたしには、その二つをどう区別すればいいのか分からない。

だからといって、「ならば時間は存在しない」とまで言うつもりもない。そこまで言えば、今度はこちらが「時間」の意味を勝手に決めて結論を広げることになる。

わたしに言えるのは、その二つを区別する方法が、今のところわたしには見えないというところまでである。

結局、「時間」で何を指しているのか

ここまで考えると、「時間は存在する」「時間は存在しない」という二択そのものに、あまり興味がなくなってきた。

その前に、何を時間と呼んでいるのか。そこを確認した方が早い。

時計で測る経過時間なのか。人間が感じる時間の長さなのか。秒や分や年という尺度なのか。物理学で扱われる時間なのか。それとも、物質や変化とは独立して宇宙に存在し、勝手に流れている何かのことなのか。

同じ「時間」という言葉の中に、かなり違うものが入っている。

主観的な時間感覚が脳によって作られているという話と、時計で測る経過時間が幻想であるという話は同じではない。

秒や年という単位を人間が作ったという話と、その単位で測っている物理現象まで人間が作ったという話も同じではない。

「時間」という一語で全部まとめてしまうと、この違いが見えなくなる。

言葉の名前や専門領域の重さに引かれず、具体的に何を主張しているのかまで戻って考える過程は、「「形而上学」と言われて調べたら、むしろそっちが崩れた」にも書いた。

結局、わたしの中ではかなり単純なところに落ち着いた。

時計の針や数字、カレンダー、太陽の位置、昼と夜、季節の移り変わり。わたしたちは昔から、そうした何らかの変化を基準にして時間を測ってきた。

それを「時間」と呼ぶのであれば、別に不思議なものではない。

一方で、そこへ後から「物質とは独立して宇宙を流れている時間そのもの」という別の概念を持ち込み、それを否定して、

「時間は存在しない」

と言われても、わたしには結局、

それ、最初から別の話をしているだけではないか。

というところへ落ち着いた。

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