人生が不安定なのは、計画した自分と実行する自分が違うから

生存戦略

最近、食事について少し実験をしていた。

しばらく控えていた炭水化物を、あえて何日か連続して取ってみたのである。

一日食べたくらいでは、そこまではっきりした変化はない。自転車にも乗れるし、普段と同じように仕事もできる。

だからこそ、翌日には「今なら炭水化物を取っても問題ないのかもしれない」という考えが出てきた。そこで、もう一日続けた。

二日、三日と続けると、身体のパフォーマンスと回復力が少しずつ落ちてくる。それでも最初のうちは動けるので、決定的に崩れたとは感じにくい。

さらに続けると、いつもどおりの時間はとても稼働できなくなった。そして、その流れの中で精神面も変わっていった。

普段のわたしは、自転車を漕ぐこと自体にかなり気持ちよさを感じている。天気のいい日に外へ出て、自分のペースで身体を動かし、商品を受け取って届ける。すでに何千回も繰り返している仕事だが、「無限モード」に入っていると、その単純な反復から普通に幸福感を受け取ることができる。

ところが、その感度が明らかに下がっていた。

一番違和感があったのは、「無限モード」から「普通モード」へ移る途中だった。

ペダルを漕ぐ脚は、まだ良い感じで動いている。息が苦しいわけでも、脚が痛いわけでもない。それなのに、配達を続けていると飽きてくる。

辛いから嫌なのではない。辛くないのに嫌なのである。

身体はまだ動くのに、以前なら同じ反復から受け取っていた気持ちよさだけが抜けている。この感覚は、単なる疲労とはかなり違っていた。

そして同じ頃、妙に魅力的に見え始めたものがあった。

固定シフトの仕事である。

決まった時間に出勤し、決まった時間まで働き、安定した給料を受け取る。毎日いつ働くかを自分で決めるより、会社に時間を固定してもらった方が楽なのではないか。

「別にUberを続けなくてもいい」

その考えが、以前より強くなっていた。

固定シフトが合理的なのは、今も変わらない

ここは先に切り分けておきたい。

固定シフトの仕事へ移ってもいいという判断自体は、今も変わっていない。

以前のわたしには、いつでも仕事を中断できる自由が必要だった。無限の波紋を立ち上げたばかりで、何を書くのか、どんな場所にするのか、その土台から考えていたからである。

現在は、その母艦がかなりできあがった。普通の仕事をしながらでも、その前後や休日に文章は書ける。毎日稼働時間を決めるより、生活費を作る時間が最初から固定されている方が、生活全体は単純になるかもしれない。

この変化については、「フーデリでなければならない理由が、なくなってきた」に書いた。

だから、固定シフトが魅力的に見えたのは炭水化物のせいであり、その判断はすべて偽物だった、という話ではない。

気になったのは、固定シフトという選択肢が急に強く見え始めた時期と、配達そのものから受け取っていた幸福感が薄れた時期が重なっていたことである。

外部条件は、ほとんど変わっていない。Uberの仕組みが突然変わったわけでも、自転車が壊れたわけでもない。固定シフトの利点も、以前から知っていた。

変わったのは、複数ある選択肢のどれを魅力的だと感じるか、その重みづけだった。

炭水化物が新しい結論を作ったというより、同じ現実を評価している側の状態が変わった可能性がある。

一日目は普通に動けたのに、二日、三日と続けるうちに回復力と配達への感度が落ちていった経過は、「炭水化物を数日戻したら、『無限モード』が崩れた」に分けて記録した。

モードが変わると、合理的な選択まで変わる

わたしは、心身ともに軽く、問題が起きても念として残りにくい状態を「無限モード」と呼んでいる。詳しい説明は、「無限モードとは何か」にまとめた。

「無限モード」では、長時間身体を動かせる。文章も書ける。新しい考えも出てくる。そして、それらを無理に自分へ命令している感覚があまりない。

そこから少し落ちると、わたしは「普通モード」に入る。

この状態では、自分ですべてを管理しながら不安定な仕事を続けるより、決まった時間だけ働き、安定した給料を受け取る方が合理的に見えてくる。

さらに落ちると、「破滅モード」に近づく。

働きたくない。何をしても空しい。先のことを考える意味も分からない。昨日まで積み上げていたものまで、急に無価値に見えてくる。

ここで重要なのは、気分が良いとか悪いとかいうだけではない。

モードによって、何を合理的だと感じるかまで変わっている。

炭水化物を連続して取った今回の変化は、身体のパフォーマンスと回復力が段階的に落ち、それに伴って「無限モード」から「普通モード」へ近づいていくものだった。

その移行途中では、脚はまだ普通に動いていた。それでも配達は退屈になり、続けたくなくなる。身体能力が完全に落ちるより先に、同じ仕事から幸福を受け取る感度が変わっていた。

酒の場合は、身体も落ちる。ただ、わたしの場合は精神面への影響がさらに大きく、「普通モード」を通り越して「破滅モード」まで落ちることがある。働きたくないだけではなく、昨日まで価値があると思っていたものまで、全部どうでもよくなる。

「無限モード」のわたしには、自転車で生活費を作り、その横でブログと書籍を育てていく生活が自然に見える。

「普通モード」のわたしに同じ計画を見せると、「そこまで不安定なことをする必要があるのか」となる。

「破滅モード」まで落ちれば、「そもそも、こんなことをして何になるのか」となる。

計画そのものが変わったのではない。

計画を評価する側の自分が変わっている。

決意が嘘だったとは限らない

何かを始めたときには、本当にやる気があった。

運動を続けようと思った。酒をやめようと思った。副業を始めようと思った。毎日勉強しようと思った。

その決意が嘘だったとは限らない。そのときの自分には、本当にそれが自然な選択だった可能性がある。

ところが、睡眠が崩れ、酒を飲み、食生活が変わり、身体の状態が落ちる。その数日後には、計画を立てたときとは別の状態の自分が、その続きを実行することになる。

すると、「今日は休んでもいい」「別にそこまでしなくてもいい」「これを続ける意味があるのか」という判断が出てくる。

一般には、ここで「意志が弱かった」と説明される。

もちろん、最初から無理な計画だった場合もある。環境が変わり、撤退する方が正しいこともある。

ただ、少なくともわたし自身については、計画を立てた自分と、それを実行する自分が、同じ意思決定モードではなくなっていたと考えた方が辻褄の合うことが多い。

突然すべてを投げ出す人

世の中には、それまで続けていた仕事や活動を、ある日突然ぶん投げるようにしてやめる人がいる。

周囲から見れば、「最初から本気ではなかった」「根気がない」「また飽きたのか」と見える。

しかし、始めたときの決意まで嘘だったとは限らない。そのときの本人には、本当に続けるつもりがあったのかもしれない。

ただ、身体が重くなり、感情が不安定になると、それまで価値があると思っていたものが急に無意味に見える。状態が戻ったあとには、「なぜあのとき全部やめてしまったのだろう」と思う。

一度だけ何かをやめたという話なら、そこにはいくらでも理由がある。

しかし、仕事、習慣、人間関係、将来の計画と、対象が変わっても同じように始めては投げ出すことを繰り返しているなら、個々の計画より先に、その判断をしている本人の状態を見た方がいいのかもしれない。

わたし自身が、そうだった

ここまで他人事のように書いたが、わたし自身がかなり分かりやすい例だった。

わたしは健康意識が低い人間ではなかった。食事法を厳密に固定し、運動を続け、早寝早起きを徹底した時期も何度もある。

その一方で、「今を楽しむことも必要だ」と考えていた。

人と会い、酒を飲み、その場を楽しむ。楽しくなれば深酒もする。すると睡眠、食事、運動が崩れ、数日後には感情や判断まで変わっている。

やがて反省し、また身体を整える。体調が戻れば、新しいことを考え、長期的な計画を立てる。しかし再び酒を飲む生活へ戻ると、その計画を立てたときとは別の状態で、続きを実行することになる。

これを長い間、何度も繰り返していた。

わたしが実際に何を始め、何を捨て、現在まで来たのかは、Episode 0にまとめている。

当時は、音楽、営業、アフィリエイトが、それぞれ別の出来事に見えていた。今振り返ると、その背後では身体と感情の周期が人生の方向まで揺らしていた可能性がある。

成功後の虚無も、同じ仕組みだったのかもしれない

わたしは音楽でメジャーデビューし、デビュー曲は現地の全国音楽チャートで六週連続1位になった。営業ではトップセールスになり、アフィリエイトでも七桁の収益を達成した。

そして、そのたびに途中で虚無になり、続ける意味が分からなくなった。

これまでは、成功や承認だけでは人は満たされないからだと考えていた。今も、その理解が完全に間違っているとは思わない。結果を出しただけで人生が完成するわけではないし、その延長に自分の欲しいものがなかった部分も確かにある。

成功したあとに次の大きな目標を必要とする仕組みについては、「成功のあとに残る『意味中毒』」にも書いた。

ただ、現在の体験から、もう一つの可能性が出てきた。

過去の成功には、ほとんどいつも酒があった。

結果が出れば祝杯をあげる。そこから酒を飲む生活へ戻り、睡眠、食事、運動が崩れる。身体が重くなり、頭も濁り、それまで面白かったものが退屈に見え始める。

成功後の虚無を酒がすべて作ったとまでは言えない。

ただ、成功後に残る地味な反復を、耐えがたい退屈として受け取る状態になっていた可能性はある。

成功するまでには、分かりやすい目標がある。しかし、結果が出たあとは、得たものを使いながら地味な改善を繰り返す段階に入る。

状態が良ければ、それは次の展開に見えたかもしれない。状態が崩れていれば、何も起きない空白に見える。

わたしは成功そのものに飽きたのではなく、地味な続きを楽しめない状態になり、そのたびに人生ごと別の方向へ動かしていたのかもしれない。

飽きたのではなく、飽きる身体で生きていた

この仮説が単なる後付けの物語ではないと思えるのは、現在のわたしが、同じ仕事の見え方が身体状態によって反転する経験をしているからである。

フードデリバリーは、すでに何千回も繰り返している。同じように店へ行き、商品を受け取り、自転車を漕ぎ、客へ届ける。

それでも「無限モード」に入っていると、自転車を漕ぐこと自体が気持ちいい。何も特別なことが起きなくても、その時間から幸福感を受け取ることができる。

反対に、酒を入れたときには身体も精神も落ちる。低温調理肉によって身体の落ち込みが以前より軽かった実験でも、精神面は明らかに別物になり、同じ反復がひどく退屈になった。

今回、炭水化物を続けて取ったときには、二日、三日と経つにつれて身体のパフォーマンスと回復力が落ち、それと一緒に、配達から受け取っていた幸福感も薄れていった。

仕事は変わっていない。配達回数が急に増えたわけでもない。

変わったのは、受け取る側だった。

少なくとも配達については、はっきり言える。

配達に飽きたのではない。飽きる身体になっていただけだった。

それなら、過去のわたしが成功後の世界を虚無だと判断したときにも、同じことが起きていた可能性がある。

何千回も繰り返した配達を幸福として受け取れる状態なら、成功後に残る地味な反復も、以前とは違って見えたのではないか。

過去へ戻って確かめることはできない。ただ、現在の自分の中で、同じ現実への評価が反転するところまでは確認できた。

低い状態で安定する人生もある

ここで少し妙なことも考えた。

もしわたしに健康意識がなく、毎日同じように酒を飲み続けていたなら、別の意味では安定した人生になっていた可能性がある。

健康的ではないし、身体の状態も次第に悪化したかもしれない。それでも、その日の楽しさだけを求め、長期計画など最初から立てない生活なら、価値観と行動はそれなりに一致する。

わたしの人生が不安定だったのは、単に体調が悪かったからではない。

身体を整え、長期的なものを作ろうとする自分と、今を楽しむために酒を飲み、翌日以降の状態を崩す自分。その二つを何度も往復していたからではないか。

計画を立てたのは前者である。しかし、その計画を実行する日のわたしが、いつも同じ状態だったわけではない。

地味な生活を楽しめる感度

人生の大部分は、派手な成功ではできていない。

同じ時間に起きる。働く。飯を食う。片づける。昨日の続きを少し進める。どれだけ大きなことを始めても、実際に占めるのは、こうした地味な反復である。

その生活の中で幸福を維持するには、日常よりはるかに強い刺激を常態化させず、普通の出来事から快楽を受け取れる感度を保つ必要がある。

酒を飲まなくても、自転車を漕ぐだけで気持ちいい。特別な出来事がなくても、身体を動かし、飯を食い、文章を書けば満足できる。

この状態なら、人生を面白くするために、定期的にすべてを壊して新しい刺激を作る必要がない。

以前、「本物の快楽主義者は、地味に生きる」という記事を書いた。そこで考えたのは、刺激を強くするより、弱い刺激から快楽を受け取れる側を守った方が、長期的には快楽の総量が増えるのではないかということだった。

今回、その感度は幸福の量だけでなく、人生の継続性にも関わっているのだと気づいた。

普通の毎日を楽しめるなら、同じことを続けられる。続けられるから、昨日の続きが今日へ残る。今日の続きを、明日も始められる。

外部の問題が消えなくても、人生は安定する

体調が安定すれば、感情や判断も安定しやすい。外部の問題が消えるわけではないが、そのたびに昨日まで積み上げたものを全否定せず、同じ方向を向いたまま対処しやすくなる。

反対に、外部環境が変わっていなくても、判断する自分の状態が頻繁に変われば、そのたびに合理的に見える道まで変わる。これを繰り返せば、人生は積み上がりにくい。

人生が不安定になる理由のすべてが身体状態にあるわけではない。計画の誤りも、外部環境の変化もある。それでも、感情、判断、行動を上流から動かす以上、身体はかなり大きな要因である。

だから、嫌でも歯を食いしばることだけが継続力ではない。**続けるという判断を自然に行える状態を、できるだけ壊さず維持すること。**それもまた、継続力なのだと思う。

今回の炭水化物の実験だけで、何かを科学的に証明できたわけではない。それでも、身体が数日かけて崩れていく途中で、配達の幸福感が薄れ、人生の選び方まで変わって見えるところを、わたしは実際に経験した。

人生を安定させるのは、変化のない毎日に耐える意志ではない。

変化のない毎日から、幸福を受け取れる状態である。

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