成功のあとに残る「意味中毒」――家入一真氏の対話を見て考えたこと

成功の証を背に、夜明け前の空を見つめる人物 サンプル解析

先日、連続起業家の家入一真氏と、クリエイティブディレクターの高木新平氏が話している動画を観た。

家入氏は動画の中で、自分の現在を「枯渇した」「凪のような状態」と表現していた。「何者かじゃなきゃいけない」という感覚も薄れたという。複数の会社を立ち上げ、普通なら一生かけても届かない場所まで行った人から出てきた言葉である。

わたしは、その言葉を他人事として聞けなかった。

結果が出たあとに、「で、これは何なんだ」となる

もちろん、家入氏とわたしでは、動かした金も社会への影響もまったく違う。

ただ、わたしも海外で音楽をやり、現地の全国音楽チャートで1位を取り、営業ではトップセールスになった。そのとき、規模とは関係なく、同じ種類の感覚を味わった。

結果が出る前は、そこへ行けば何かが変わると思っている。実際に結果が出れば、しばらくは気持ちいい。周囲から認められ、賞賛され、自分が特別な人間になったように感じる。営業のときは、その快楽をかなり味わった。

しかし、やがて慣れる。そして、「で、これは何なんだ」となる。

達成したことが嘘になるわけではない。努力が無意味だったわけでもない。ただ、それによって人生が完成すると思っていたのなら、話が違う。

次の目標は、本当にやりたいことなのか

動画では、高木氏との対話を通じて、家入氏の中に次の方向が見えてくる。その瞬間、表情や声の調子が変わる。その変化を見て、わたしは「意味中毒」という言葉を思い出した。

ここで言う意味中毒とは、家入氏を診断する言葉ではない。わたし自身にもあった仕組みへ付けた名前である。

何かを達成する。それに慣れ、動く理由が消える。すると、次の肩書き、次の使命、次の大きな目標を置き、もう一度自分を動かす。

これ自体が悪いわけではない。本当に次を作りたいなら、作ればいい。新しいことを始める人がいるから、世の中に便利な物も面白い物も増える。

ただし、「やりたいから動く」のと、「止まった自分に耐えられないから、次の意味を必要とする」のは別である。外から見れば、どちらも新しい挑戦に見える。本人にしか分からない差だ。

わたしは、次の山を登らなかった

音楽で結果が出たあと、バンドはこれからさらに売れるという段階に入っていた。それでも、わたしは辞めた。

営業で結果が出たあとも、そのまま続ければ高収入が見え、会社からは管理職の席も提示された。それでも辞めた。

先が見えなかったからではない。むしろ、先が見えたから、その延長に欲しいものがないと分かった。

だからといって、当時から立派な理論を持っていたわけではない。

「なんか違う」。先にあったのは、それだけだった。今書いている理屈の半分は、その感覚のあとに付けたものである。

意味より先に、身体を戻す

現在のわたしは、借金を返すために自転車で配達し、その合間にブログと書籍を書いている。肩書きだけ見れば、過去よりかなり落ちた。

しかし、空腹で食べる肉がうまい。身体を使ったあとは眠れる。公園でキーボードを開けば、続きを書きたくなる。

ここには、「社会を変える」という大きな使命は必要ない。身体が動き、今日やることがあり、終わったあとに「これでよかった」と思える。それだけで一日は成立する。

意味を否定しているのではない。無限の波紋を書くことにも、当然わたしなりの意味はある。ただ、意味を自分の生命維持装置にしない。

新しい肩書きが見つからなければ動けない状態より、食事、睡眠、運動、金、仕事を整えた結果として、勝手に次の文章を書きたくなる状態の方が強い。

動画を見て考えたのは、成功者が間違っているという話ではない。成功の先にも人生は続く。

そのとき、次の意味を探し続けるのか。意味がなくても成立する一日を作るのか。

わたしは後者を選んだ。少なくとも今は、自転車を漕ぎ、肉を食い、文章を書いているだけで、十分に忙しい。

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