YouTubeで、空き缶を集めて生活する男性へ密着した動画を観た。
動画そのものより面白かったのが、コメント欄だった。同じ男性を見ているはずなのに、感動する人、労働条件を計算する人、自分を反省する人、生活保護を勧める人、政治の話を始める人がいる。
同じ映像を見ても、見えている現実はかなり違う。
一つ目は、感動の物語として見る人
「涙が出た」「心が洗われた」という反応がある。この人たちが見ているのは、厳しい環境でも笑い、働き、感謝する人の物語である。
空き缶の汚れや労働時間より、その男性の表情や言葉が先に入ってくる。動画を見終えたあとには、「自分も頑張ろう」という感覚が残る。
二つ目は、金と労働条件を見る人
一方で、缶の買取価格、親方へ渡す割合、実際の時給を計算する人もいる。この人たちにとって重要なのは、感動できるかではない。一日何時間働き、いくら残り、誰が利益を得ているのか。数字と仕組みを見ている。
三つ目は、自分を見る人
「自分は何をしているのだろう」「もっと頑張らなければ」と書く人もいる。男性を見ているようで、実際には自分の生活と比較している。
他人の十八時間労働が、そのまま自分を叩く材料へ変わる。
四つ目は、制度を使えばいいと考える人
「生活保護を受けて休んだ方がいい」という反応もある。これは冷たさとは限らない。使える制度があるのに、身体を壊すほど働く必要はない。その人なりの合理的な心配である。
ただし、本人にとって働くことが金以外の意味を持っているなら、制度だけでは答えにならない。
五つ目は、政治の話として見る人
政府、福祉、税金、外国人政策などへ話を広げる人もいる。動画に出ている一人の生活より、もともと自分が持っていた社会への怒りが前へ出る。
どんな動画を見ても、最後は同じ政治の話へ着地する人はいる。
物理的な事実まで消えるわけではない
この違いを見ると、「客観的な現実など存在しない」とまで言いたくなる。しかし、それは言いすぎである。
動画ファイルは同じだ。映っている人物も、収録された音声も変わらない。男性が実際にどのような生活をしていたのかという、確認できる事実もある。
違うのは、その中から何を拾い、何を重要だと感じ、どんな意味を付けるかである。人は現実をそのまま受け取っていない。
自分の経験、関心、怒り、疲労、欠落感を通して見る。
だから、同じ物理的な出来事から、別の現実が立ち上がる。
コメント欄は、書いた人の状態まで映している
これはコメントを書いている人だけの話ではない。わたし自身、身体の状態によって同じ景色がまったく違って見える。
疲れているときは、信号待ち、遅い自転車、店員の対応まで不快になる。身体が整っているときは、同じ配達の道が旅になる。
気持ちの持ちようを変えたのではない。食事、睡眠、酒、運動が変わった結果として、勝手に受け取り方が変わる。
自己感覚は、頭の中だけにある飾りではない。次に何をするかまで変えている現実である。
他人のコメントより、自分が何を見たか
コメント欄で、どの見方が正しいかを決めるつもりはない。感動するのも、数字を計算するのも、制度を勧めるのも、政治の話をするのも勝手である。
ただ、何に反応したかを見ると、その人が今どこにいるのかが少し見える。もちろん、わたしがコメント欄を五つに分けたこと自体も、わたしの見方にすぎない。
それでも、誰かの正義へ参加するより、自分がなぜそこへ引っかかったのかを見る方が、わたしには使い道がある。そして見終わったら、スマートフォンを閉じる。
他人の現実を延々と判定するより、自分の食事を作り、残高を確認し、文章の続きを書く。少なくとも、そちらは今日の生活を実際に変える。


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