今日も、自転車で他人の食事を運んだ。
店で商品を受け取り、配達バッグへ入れ、地図に表示された住所まで走る。マンションへ着いたら部屋番号を確認し、指定された場所へ置く。注文した人は、玄関を開ければ食事を受け取れる。
受け取る側から見れば、欲しいと思ったものが、欲しいと思った時間に現れたように見える。
スピリチュアルの言葉を使えば、「必要なものを宇宙が届けてくれた」と表現することもできるのかもしれない。
しかし、その食事は空間から突然現れたわけではない。
食材を作った人がいる。それを運んだ人がいる。店で料理した人がいる。そして最後に、わたしが自転車を漕いで玄関まで運んだ。
食事を届けたのは、少なくとも確認できる範囲では宇宙ではなく人間である。
わたしは以前から、スピリチュアルの解釈には論理の飛躍が多いと感じている。
実際に人が動き、いくつもの作業を経て起きた出来事が、最後には「宇宙が届けてくれた」「引き寄せた」という一言で説明される。そのように解釈すること自体は自由だが、どこまでが実際に確認できる出来事で、どこからが本人による意味づけなのかは、分けて考えた方がいい。
食事が届いたことは事実である。食材を作った人、料理した人、運んだ人がいることも確認できる。
一方で、それを宇宙が用意したと考えるのは、その事実に加えられた解釈である。
この二つが最初から一つの話として語られると、実際に何が起きたのかが見えにくくなる。
そして、社会の常識から抜け出したはずが、今度はスピリチュアルの説明だけで、あらゆる出来事を見るようになることがある。
わたしがこの記事で「第2のVR」と呼んでいるのは、その状態である。
「引き寄せたもの」の途中には、たくさんの人がいる
「執着を手放したら、必要なものが自然と入ってきた」
「宇宙に任せたら、すべてがうまく回り始めた」
「本当の自分とつながったら、必要な人が現れた」
こうした話を、わたしも何度も読んできた。
本人が嘘をついているとは限らない。実際に気持ちが軽くなり、ちょうどよいタイミングで仕事や人との出会いがあったのだと思う。
ただし、その結果がどのように届いたのかを見ていくと、途中には人間の行動がある。
仕事の話が来たなら、誰かが連絡した。商品が届いたなら、誰かが作って運んだ。困っているときに助けられたなら、誰かが時間や金や労力を使った。
その途中をすべて省略して、「宇宙が届けてくれた」と説明することもできる。しかし、それを続けていると、実際に動いた人間が見えなくなる。
わたしが運んだ一食も、客の画面上では、数回の操作によって現れた商品に見えるだろう。配達員の顔を見ることもなく、誰がどの道を走ってきたのかを知る必要もない。
それでも、途中の出来事が消えたわけではない。
雨が降れば濡れるし、坂道では足が疲れる。店で料理が完成していなければ待つ。住所が間違っていれば探す。そうした具体的な作業のあとに、ようやく食事が届く。
見えないことと、存在しないことは違う。
「宇宙におまかせ」と考えられる余裕も、誰かが支えている
人が「宇宙に任せよう」と考えられるのは、精神的に優れているからだけではない。
蛇口をひねれば水が出て、店へ行けば食べ物があり、スマートフォンから注文すれば配達員が来る。体調が悪くなれば、医療機関を探すこともできる。
水道も電気も物流も医療も、最初から自然に存在しているわけではない。そこでは多くの人が働き、点検し、故障へ対応し、毎日使える状態を維持している。
もちろん、そのような環境の中にいても苦しい人はいる。安全な場所に住んでいるからといって、精神的な悩みが小さいとは限らない。
ただ、「存在しているだけで大丈夫」「必要なものは自然に与えられる」という感覚には、そう考えている間にも生活が完全には崩れない環境が関係している。
家の水道が止まり、食べ物もなく、今日中に寝る場所を失う状況なら、まず対処する必要がある。料金を確認し、連絡し、金を用意し、利用できる制度を探すことになる。
そのとき実際に助けになるのは、水道局の職員、店員、家族、知人、行政の担当者など、具体的な誰かである可能性が高い。
「宇宙におまかせ」が成立しているように見えるとき、その背後では、名前も知らない人たちが生活を維持している。
社会というVRを抜けて、第2のVRへ入る
わたしは、社会で当たり前とされている価値観の多くを信じていない。
学校へ行き、会社へ入り、結婚して家を買い、定年まで働く。その道を選べば必ず幸福になるとは思わない。実際、世間から見れば成功していた時期にも、わたしは満たされなかった。
社会の常識を疑うこと自体は、悪いことではない。
問題は、一つの決められた考え方から離れたあと、別の決められた考え方へそのまま移ることである。
社会の価値観から離れた先で、「すべては必然である」「宇宙は必要なものを与える」「嫌な出来事も魂が選んだ」と考え始める。
言っていることは違っても、結局はどちらも、起きたことを決まった答えに当てはめている。
社会が用意した物語を第一のVRとするなら、わたしにとってスピリチュアルは第2のVRになり得る。
第一のVRでは、会社員になれば安心できると語られる。第2のVRでは、宇宙へ任せれば大丈夫だと語られる。
どちらも、本人がそう信じることで気持ちが楽になる場合はある。
しかし、現実がその説明どおりに動くとは限らない。
わたしも、そっち系の本を読んでいた
実際、わたしにもスピリチュアル系の本を読み漁っていた時期がある。
宇宙の仕組みを深く理解したかったのかと聞かれれば、そこまで立派な話ではない。
当時のわたしは、ただ楽をしたかった。
もう頑張りたくなかった。面倒なことをしたくなかった。働いたり、失敗したり、現実を一つずつ処理したりせずに、考え方だけで何とかならないかと思っていた。
だから、努力しなくても必要なものが入ってくる話は都合がよかった。「頑張らなくていい」「執着を手放せばいい」「本当の自分へ戻ればいい」という言葉を読めば、動いていない自分を肯定できた。
少なくとも、当時のわたしにとってはそうだった。
もちろん、同じ本を読んだ人が全員、現実から逃げているとは思わない。教えを知ったことで気持ちが落ち着き、むしろ行動しやすくなった人もいるだろう。
ただ、わたしの場合は違った。
言葉を読むことで一時的には楽になったが、金は増えず、生活も変わらなかった。働いていない事実も、酒を飲み続けている事実も、そのまま残っていた。
考え方は変わっても、銀行口座の数字は変わらない。
この単純な事実を、長いあいだ見ないようにしていた。
精神的に楽になることと、問題が解決することは別
スピリチュアルな考え方によって、心が軽くなることはある。
嫌な出来事への執着が薄れたり、自分を責める時間が減ったりすることもある。それによって眠れるようになり、次の日に動けるなら、現実にも影響は出る。
だから、精神的な変化に意味がないとは思わない。
ただし、気持ちが楽になったことと、問題が解決したことは別である。
借金があるなら、返済するか、条件を変更するか、別の対処を考える必要がある。身体が悪いなら、休む、食事を変える、酒をやめる、医療機関へ行くなど、実際の対応が必要になる。
人間関係が苦しいなら、距離を取るか、話し合うか、そこから離れるかを決めなければならない。
考え方を変えた結果として、そうした行動を取りやすくなることはある。しかし、考え方を変えたこと自体が、必要な作業を終わらせてくれるわけではない。
わたしの生活が実際に変わり始めたのは、酒をやめ、外へ出て、倉庫や清掃の仕事を始めたあとだった。その後、非電動のママチャリでフードデリバリーを始め、毎日の生活費を自分で稼ぐようになった。
宇宙から仕事が送られてきたのではない。
求人を探し、応募し、決められた場所へ行って働いた。フードデリバリーではアプリを起動し、注文を受け、店へ向かい、食事を届けた。
少なくとも、わたしの生活が変わった経路は確認できる。
「宇宙」と呼ぶ前に、実際に起きたことを見る
願ったあとに仕事が決まったなら、その仕事を誰が紹介し、自分が何をしたのかを見る。
必要な金が入ったなら、誰が払い、何の対価として入ったのかを見る。
偶然よい人と出会ったなら、どこへ行き、どちらが話しかけ、その後どのように関係が続いたのかを見る。
そこまで確認したうえで、それを宇宙の働きと呼ぶかどうかは、本人の自由である。
ただ、途中にいた人間と、その人がしたことを消す必要はない。
わたしは今、社会の価値観を絶対だとは思っていない。同時に、スピリチュアルな説明を絶対だとも思っていない。
起きたことを見て、必要な対処をする。そのあとで意味を考える。
今日もこれから、自転車で食事を運ぶ。
注文した人が、宇宙に感謝するのか、店や配達員に感謝するのか、それとも何も考えずに食べるのかは知らない。
ただ、その食事が届くまでに誰かが動いていた。
それだけは事実である。


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