「形而上学」と言われて調べたら、むしろそっちが崩れた

同じ起点から異なる経緯をたどって進む二隻の船 生存戦略

最近、「自由意志がないなら、犯罪者は悪くないのか」という記事を書いた。

わたしは、自由意志は存在しないと考えている。ただし、「意志が存在しない」という意味ではない。人間の中には普通に意志が生まれるし、その意志によって行動も変わる。

わたしが疑っているのは、その意志そのものを、身体、環境、記憶、過去の経験などとは無関係な「わたし」が自由に作っているのか、という部分である。

記事を書き終えたあと、AIにできるだけ厳しく穴を探させた。すると最後の方で、こんなことを言われた。

形而上学的な自由意志まで否定できたわけではない

わたしはそこで止まった。

形而上学的?

聞いたことはある気がするが、意味はほとんど知らない。どうやら、わたしの知らない高度な領域に、まだツッコミどころが残っているらしい。

そこで初めて、「形而上学」とは何なのかを調べた。

知らない言葉は、それだけで強く見える

形而上学について調べると、かなり大きな話が出てきた。

存在とは何か。因果とは何か。同じ物であり続けるとはどういうことか。時間とは何か。

といった具合に、目の前にある個別の物ではなく、世界の根本的なあり方を考える哲学の領域らしい。

説明だけ読むと、ものすごく深そうである。長い歴史があり、専門家がおり、大量の本や論文もある。

通常、こういうものを前にすると、「自分が知らないだけで、ここには高度な答えがあるのだろう」と思いやすい。わたしも一瞬そう思った。

しかし、少しすると別の疑問が出てきた。

で、具体的には何を考えている学問なのだろう。

名前や歴史をいったん横へ置き、中身を見てみることにした。

部品を全部交換した船は、同じ船なのか

そこで出てきた有名な話の一つが、「テセウスの船」だった。

一隻の船がある。古くなった板やマストを少しずつ交換していき、最終的には元の部品が一つも残らなくなる。

そこで問う。

これは、最初の船と同じ船なのか。

最初に読んだとき、わたしは何が問題なのかよく分からなかった。

最初にあった船を修理し続けた結果、全部品が新しくなった。それが現実に起きたことのすべてではないのだろうか。

わたしが最初に思ったのは、かなり身も蓋もないことだった。

これ、ある種の言葉遊びなのではないか。

何をどこまで「同じ」と呼ぶのか。部品が変わっても履歴が続いていれば同じなのか。元の材料が残っていなければ別物なのか。

少なくとも最初の問いは、世界の奥に隠された謎というより、人間が「同じ」という言葉の範囲をどこへ置くかという、国語や定義の問題に見えた。

さらに、テセウスの船には「取り外した元の部品を集め、もう一隻の船を組み立てる」みたいなバージョンもあるらしい。

一方には、最初の船を修理し続けた結果、全部品が新しくなった船がある。もう一方には、取り外した古い部品を集め、後から組み立てた船がある。

そして問う。

では、どちらが本当の「元の船」なのか。

いや、やはり意味が分からない。

一方は「修理を続けた船」で、もう一方は「取り外した部品から後で組み立てた船」である。どうやって二隻ができたのかは、すでに全部説明されている。

現実に起きたことについて、分からない部分は何もない。

それなのに、なぜどちらか一隻だけを「本当の元の船」に決めなければならないのだろう。

実務上、所有権や文化財としてどちらを元の船として扱うか決める必要があるなら、その目的に合わせて規則を作ればいい。それは人間社会の制度と定義の問題である。

しかし、現実のどこかに「真の元の船」という答えが、人間の判断とは無関係に存在するとは限らない。

修理を続けた船と、元の部品から再構成した船。そう呼べば、現実に起きたことはすべて説明できる。

そこでなお「真に同じなのはどちらか」と問いたくなるのは、人間が「同じ」という言葉に、現実の履歴とは「別の何かが存在する」と考えているからではないか。

「同じ」は、物だけでなく人間側にもある

船の長さは測れる。重さも測れる。材料も調べられる。どの部品をいつ交換したのかという履歴も残せる。

一方で、「この船が宇宙的な意味で本当に同じ船であるか」という性質は、どこを測れば出てくるのだろう。

人間が一人もいなくても、その性質は船の中に入っているのか。それが存在する世界と存在しない世界には、観測できる違いがあるのか。

最初に人間が一隻の船として設計し、名前をつけ、使い始める。壊れた部分があれば「別の船を作った」ではなく、「この船を修理した」と判断する。その履歴を記憶し、一つの対象として管理し続ける。

物理世界では、構成部品が時間とともに変化している。人間側では、その変化する物体を一つの対象として追跡している。

この二つが同時に起きている。

もし全部品の交換後にその船だけを見せられ、過去について何も知らされなければ、「昔と同じ船」という認識自体が生まれない。昔を知らないからである。

そう考えると、「同じ」は物の側だけにある性質ではない。人間の記憶、目的、分類の仕方も加わって成立している。

そのことを調べるのは無意味ではない。むしろ、自分たちが何を基準に物や人を同じものとして扱っているのかが見える。

ただし、そこで見つかったのが人間側の基準なら、それをそのまま「世界の奥に真の同一性が存在する証拠」として扱うのは論理が飛躍し過ぎていないだろうか。

自由意志の話でも、同じことが起きていないか

ここで、最初の自由意志へ戻る。

自由意志という言葉自体、使い方が一つではない。単に「自分の欲求に従って行動できる」という意味なら、わたしもその自由は普通にあると思う。

わたしが疑っているのは、その一段奥である。

過去の原因や、その場にある欲求や理由だけでは決まらず、主体そのものが選択を成立させる。哲学では、そのような考え方も真面目に検討されている。

ここでわたしが知りたいのは、専門用語の数ではない。

その主体が存在すると、現実には何が起きるのか。

身体、記憶、性格、環境、その場にある理由がまったく同じでも、主体だけの力によって別の選択が生まれるというのなら、その力はどう働くのか。

脳や身体へ何らかの変化を起こすのか。起こすなら、それは現実の因果の中へ出てくる。何の変化も起こさないなら、どうやって行動だけを変えるのか。

少なくとも、ここが説明されないまま、

物理的な因果とは別に、主体が自由に選んでいる可能性は残る

と言われても、わたしの記事の論理に穴があった、とはならない。

可能性という言葉だけなら、いくらでも残せる。問題は、その可能性を置くことで何が説明でき、何が起きたら間違いだったと分かるのかである。

難しい名前をつけても、反証不能なものは反証不能である

ここで、かなり単純な疑問が出てきた。

観測も測定もできず、存在しない場合との違いも示せないものを置くなら、それはオカルトと何が違うのだろう。

もちろん、形而上学全体がオカルトだと言いたいわけではない。テセウスの船のような思考実験には、普段無意識に使っている概念のズレを見せる役割がある。自由意志についても、何を自由や責任と呼ぶのかを整理することには意味がある。

わたしが引っかかるのは、考えを整理する道具だったはずの概念が、いつの間にか現実に存在する何かとして扱われ、その存在を確かめる方法だけがない場合である。

「波動」と言えば怪しく見える。「形而上学的主体」と言えば知的に見える。

しかし、いったん名前を外してみれば、どちらも「観測できない何かが現実へ作用している」という主張である。片方に難しい専門用語がついているというだけで、そちらを上に置くのはおかしい。

専門用語をつけてそれらしく見せても、説明の代わりにはならない。

アルミホイルの方が、まだ現実に殴られる

そして考えているうちに、妙なところへ着地した。

場合によっては、オカルト扱いされている主張の方がまだ現実に近い。

たとえば、「頭にアルミホイルを巻けば、特定の電磁波を防げる」と言う人がいたとする。かなり怪しく聞こえる。

しかし、何をどの程度防げるという主張なのかを決めれば、測ることはできる。結果が出なければ、その主張は潰れる。

UFOも同じである。地球外生命体の乗った飛行物体が来ているという主張に、十分な証拠がなければ信じる理由はない。

ただし、本当に来ているなら、映像、レーダー、物体などの証拠が残る余地はある。極端に言えば、明日わたしの家の前へ墜落する可能性もある。

少なくとも、これらの主張は、間違っていれば間違っていると判明する余地がある。

一方で、観測不能な主体が物理的因果とは別に選択していると言いながら、観測できず、存在しない場合との違いもなく、どんな結果が出ても否定されないのなら、どちらが現実に近いのか。

かなり雑に言えば、アルミホイルの方がまだ科学的である。

少なくともアルミホイル自体は、そこにあるのだから。

長い歴史は、真理の保証書ではない

形而上学を調べたとき、わたしが最初に圧倒されたものは中身だけではなかった。

非常に長い間、多くの人が考え続けてきた。専門家がいる。大学でも扱われ、大量の本や論文がある。

これだけ積み上がっていると、「そこには、それだけ考える価値のある深い問題が存在するのだろう」と思いやすい。

しかし、長く研究されてきたことから直接分かるのは、「長い間、多くの人が研究する価値を認めてきた」ということだけである。

その歴史によって論点が整理され、自分一人では気づけない区別が見えることはある。実際、自由意志にも複数の定義と立場があり、「自由意志はあるか」という一文だけでは話が噛み合わないことも分かった。

ただ、歴史の長さそのものが、そこで想定された何かの存在証明になるわけではない。

人が集まり、専門用語が増え、議論が蓄積する。だからと言ってそれが「正しい」とはならない。

そしてAIも、哲学側の問題設定を先に信じた

ちなみに、この文章自体を一度AIにチェックさせたとき、もう一度まったく同じことが起きた。

最初わたしは、テセウスの船の話として「一隻の船がある。古くなった部品を少しずつ交換していき、最終的には元の部品が一つも残らなくなる。これは元の船と同じか」という例だけを文章内で書いていた。

ところがAIは、それとは別に「元の部品でもう一隻を組み立てる」バージョンの話を持ち出し、そこまで進むと単なる言葉の問題ではなく、「同一性の論理が衝突する本当の難問になる」と言うのだ。

わたしも一瞬、「なるほど。そこまで考えられているなら、ただの国語の問題と言い切るのは浅いのかもしれない」と思った。

しかし、改めて二隻ができた過程を見直すと、やはり何が難しいのか分からなかった。

修理を続けた船と、取り外した部品から組み直した船がある。二隻は別々の場所にあり、どうやってそこへ至ったのかも分かっている。

そこに残された問題は別に何もない。問題があるように見えるのは、「同じ」という言葉をどちらか一方だけに割り当てなければならない、というルールを置いているからだ。

恐らく、AIもまた、

哲学には長い歴史がある。専門家が議論している。ならば、素人には見えていない高度な問題があるはずだ。

という前提から出発していたのだと思う。

既存の議論を詳しく説明できることと、その問題設定自体が必要であることは別である。しかし「哲学」「同一性」「推移律」といった言葉が並ぶと、問題が本当に存在することまで先に信じやすい。

形而上学の権威を疑っていた文章が、修正の段階でもう一度、その権威に飲み込まれかけた。

これは、今回わたしが考えていたことの、かなり分かりやすい追加実例になった。

知らない言葉に出会ったら、具体まで戻す

今回、一番面白かったのは形而上学について結論を出したことではない。自分の認識が変わっていった過程だった。

最初、「形而上学的な自由意志まで否定できていない」と言われた。

わたしは形而上学を知らなかった。調べると、深そうに見えた。長い歴史もあり、世界の根本を扱うという。一度は、自分の知らない高度な領域に大きな穴が残っていると思った。

しかし、名前を外し、「具体的には何について考える学問なのか」まで戻ってみた。

すると、少なくとも自由意志についてわたしが問われていた部分は、最初ほど強い反論には見えなくなった。

主体が因果とは別に選ぶと言うなら、その主体によって何が変わるのか。存在しない場合とどう見分けるのか。どんな結果なら、その考えを捨てるのか。

そこが示されない限り、「形而上学」という名前だけで、現実を原因から考える立場が崩れたことにはならない。

これは、知らないものを最初から馬鹿にするという話ではない。むしろ逆である。

知らないから調べる。ただし、名前、権威、歴史の長さだけで分かったことにはしない。最後は、自分が理解できる具体的な主張まで戻す。

そこで初めて、自分の論理に本当に穴が残っているのか、それとも別の話をされているだけなのかを考えられる。

形而上学自体には、わたしがまだ理解していない深い議論があるのだと思う。
ただ今回の印象としては、その議論の中で深く考える以前に、そもそも前提や答えの決め方がわたしとは違うように見えた。

以前、「分からないものを、分かったことにしない」という記事を書いた。

今回は、その続きを少し実践したような形になった。

自由意志の記事の穴を探していたはずなのに、まったく馴染みのない分野の馴染みのない難解な言葉について調べることになった。

現実に起きていることと、人間がそれをどう呼んでいるかは別である。

その二つを混ぜると、元々存在しなかった問題まで作り出すことになる。


参考:Stanford Encyclopedia of Philosophy, “Identity Over Time”/Stanford Encyclopedia of Philosophy, “Free Will”

 

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