「親を心配させないように生きる」という常識を疑う

家族の家を背に、青い夕暮れの街で自分の進む道を見つめる成人男性 生存戦略

「親を心配させないように生きた方がいい」

こう言われると、かなりまともな話に聞こえる。親に迷惑をかけない。親を悲しませない。できるだけ安心させる。わたし自身、長い間、そのあたりをあまり疑ってこなかった。

しかし最近、人間関係を減らし、自分の生活や計画を他人へ説明する機会もほとんどなくなったことで、一つ気になることが出てきた。

親に迷惑をかけないことと、親を心配させないことは、本当に同じなのだろうか。

「迷惑をかける」と「心配させる」は違う

親に金を借りる。借金の肩代わりをしてもらう。自分で起こした問題の後始末を押しつける。こういう場合は、実際に相手へ負担をかけている。

しかし、会社を辞めたから心配される。結婚しないから心配される。海外へ行くから心配される。このあたりになると、話が違ってくる。

同じ人生を見ても、「好きにやればいい」と言う親もいれば、「そんな生き方では心配で仕方がない」と言う親もいる。

心配の量は、こちらの行動だけでは決まらない。相手の性格や経験、価値観、何を安全だと考えるかによっても変わる。

もちろん、心配して眠れなくなることもあるだろうし、こちらが見落としている危険に気づいている場合もある。心配なんて全部くだらない、と言いたいわけではない。

ただ、それをなくすことまでこちらの義務にすると、妙なことになる。

親が心配性であればあるほど、子どもが選べる人生が狭くなる。

自分で働き、自分で生活していても、親が安心できない生き方は選べない。そうなると、自立したあとも、人生の大きな選択には親の許可が必要ということになってしまう。

心配することと、選択を止めることは別である

子どもの頃なら事情は違う。親には保護者としての責任があり、生活費も出している。何かあれば、実際に対応するのも親である。

しかし成人し、自分で生活し、自分の選択の結果を引き受けるようになったあとまで、親を安心させ続けることが義務になるのだろうか。

親には心配する自由がある。成人した子には、それでも自分の人生を選ぶ自由がある。この二つは、同時に成立するはずだ。

親子である以上、法律上の責任が生じることはある。ただ、それと「親が安心する仕事や生き方を選ぶこと」は別である。

「心配しているから、話を聞いてほしい」なら分かる。知らなかったことを教えてもらえば、考え直すこともある。

しかし、「心配しているのだから、その生き方はやめてほしい」と求められ、従わない限りこちらの選択を認めてもらえないのなら、話は違う。それでは、相手の心配が人生に対する拒否権になってしまう。

相手が安心するまで選べないのなら、最終的に決めているのは誰なのだろう。

「君がそれでいいならね。でもさ……」

こういう話をすると、かなり典型的な返答がある。

「いや、別にいいんだよ。君がそれでいいならね」

ここまではいい。「人それぞれだと思うし」と続けば、そうですね、となる。

「でもさ、親だけは心配させない方がいいと思うよ」

いや、それ結局否定してるやん(笑)。

「好きに生きればいい。でも家族は大切にした方がいい」

「君の人生だから自由だよ。でも親の葬式くらいは行くだろう」

この「でも」の後ろに、その人が疑っていないルールが出てくる。

親は大切にするもの。家族とは縁を切らないもの。本人にとっては当たり前すぎて、一つの価値観を話している感覚すらないのかもしれない。

だから、それを外れる人を見ると、「自分ならそうしない」ではなく、「それはさすがに違う」となる。

しかし、相手にとって当たり前であることと、わたしもそれに従わなければならないことは別である。

意見を聞くことと、決定を任せること

自分なら親と縁を切らない。自分なら葬式には行く。自分なら、そんなことをしたら後悔する。

その人がそう思うことは分かる。ただ、自分だったら後悔することと、他人が後悔することは同じではない。

自分にとって耐えられない孤独を、別の人は快適だと感じるかもしれない。何より大切な家族関係が、別の人には重荷になっているかもしれない。

他人の意見が役に立たないわけではない。自分より詳しい人もいるし、こちらが勢いで決めようとしているときに、立ち止まるきっかけをくれる人もいる。

それでも、意見を聞くことと、決定を任せることは違う。

「自分なら後悔する」という話は参考にはなる。しかし、それだけで、わたしも後悔すると決まったわけではない。

この違いについては、以前書いた「他人の評価を、自分の現実にしない」でも考えている。

わたしも、他人の選択を危ないと思うことはある。意見を言うこともあるだろう。ただ、伝えるべきことを伝えたあとまで、自分が納得する選択を相手にさせなければ気が済まないのなら、それは別の話だ。

他人の自由を認めることが難しくなるのは、自分なら絶対に選ばない人生を、その人が選んだときなのだと思う。

自分の人生を、毎回説明しなくてもいい

とはいえ、価値観が大きく違う相手から何度も意見を言われれば、普通に面倒である。

わたしの場合は、自分のことを必要以上に話さなくなった。計画を逐一説明しないし、現実の知人に持論を語って、理解してもらおうともしない。

話せば話すほど、「そんなことをして大丈夫なのか」「普通はこうするだろう」というやり取りが増える。

そもそも話さなければ、説明や反論に時間を使わずに済むことも多い。

何でも共有することが良い人間関係だ、という考え方もあるのだろう。しかし、わたしにとっては、話さないことも自分の生活を守る方法になっている。

それでも関係そのものが重荷になるなら、距離を置くこともある。家族だから、昔からの友人だからという理由だけで、今の付き合い方を一生続けなければならないとは思わない。

実際に人間関係を減らして何が変わったのかは、「人生とは、ただの記憶遊び――人間関係を捨てた先に見えたもの」に書いた。

親を安心させたい人は、そうすればいい。そのために選びたい仕事や暮らしがあるなら、それも本人の選択である。

ただ、それを望んでいない人にまで、同じ生き方を求める理由にはならない。

親が心配するかもしれない。誰かに否定されるかもしれない。それでも、自分で選び、必要な責任を引き受けて生きていく。

親が安心できるかどうかを、わたしの人生を選ぶ最後の基準にはしない。

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