炭水化物を数日戻したら、「無限モード」が崩れた

青い光から灰色の霧へ向かって走る自転車の人物 身体・生活

ここしばらく、食事からほとんど外していた炭水化物を、あえて何日か連続して取ってみた。

現在のわたしは、低温調理した肉を中心にした一日一食で、米、パン、麺などの主食はほとんど食べていない。この形にしてから身体の状態がかなり安定し、長時間自転車を漕いだあとにも余力が残るようになった。

ただ、一日一食や主食抜きは、今回急に始めたものではない。

十年ほど前、営業マンとして働いていた頃には、肉と魚を中心にした一日一食をかなり厳格に続け、主食はほぼ取っていなかった。主食を食べずに長時間働く生活には、その頃からかなり慣れていた。

ただし、その生活が現在の「無限モード」と同じだったわけではない。食事にはかなり気を使っていたが、酒、特にビールだけはやめられなかった。

営業マンとして数字を追い、人間関係の中で戦っていた当時、酒は単なる悪習でもなかった。同僚や上司と飲み、一日の緊張を切り、売れた日には祝杯をあげる。あの生活を続けるうえで、酒には酒の役割があった。

今のわたしから見れば、酒は身体と精神の状態を崩す大きな要因である。しかし、酒だけを抜き、あの働き方を同じ熱量で続けられたかは分からない。酒を飲まずに営業マンとして戦った自分は、実際には存在していない。

仕事を辞めたあとも、その傾向自体は残った。ただし食生活はかなり緩くなり、酒に溺れ、ジャンクフードを貪る日もあった。その時期の経緯は、Episode 0に書いている。

それでも、一日一食へ戻すこと自体にはほとんど苦労しなかった。現在は、初めて主食を抜き、一日一食を始めた頃のような不自然さもあまりない。多少ジャンクな食事へ走っても、一日一食を無理なく続けられる状態はずっと残っていた。

今回の実験は、最近始めた低糖質生活へ炭水化物を戻した話ではない。十年ほど前から形を変えながら続いている食事のベースへ、主食を連続して戻したらどうなるのかを確かめたものである。

現在の「無限モード」は、十年前の食事へ戻っただけでも、そこから酒だけを引いたものでもない。仕事や人間関係との距離まで変わり、酒を必要としにくい生活になった。

そのうえで、一日一食、肉中心の食事、低温調理、運動、休息を組み直してきた。細部の検証はまだ残っているが、少なくとも、これまで試してきたことの集大成であり、初めてここまで条件が揃った状態である。

ただ、ここまで他の条件が整ったのなら、炭水化物を戻しても大丈夫なのではないか、という疑問が残っていた。

以前とは身体の状態が違う。酒も飲んでいない。食事の中心も変わっている。

「炭水化物を戻しても、もう大丈夫じゃないか。運動量は、フーデリでこれ以上ないくらい確保できている。何より、炭水化物の世界には魅力的な食べ物が溢れかえっている。ケーキも菓子パンも、食べればやはりうまい。パスタもピザも寿司も、当然うまいのだ」

主食を取らない生活が続いている間は、米やパンを特に欲しいとも思わなくなる。「肉を食べていれば十分」と感じていた時期も当然あった。

ただ、一度食べれば、その魅力は普通に分かる。肉食になったことで、炭水化物を使った食べ物がまずくなったわけではない。むしろ久しぶりに食べれば、普通にうまい。

だからこそ、今の身体なら炭水化物も残せるのではないかと思った。食べられるものが一気に増えれば、生活環境が変わっても食事に困りにくい。海外生活だけでなく、住み込みの仕事でまかないを食べるとき、人と食事をする機会が増えたとき、肉をうまく手に入れられない場所へ移ったときにも、柔軟に対応できる。それに越したことはない。

そうして、自分の中で若干の正当化もしながら、炭水化物アリの食生活を試してみることにした。

一日目は、普通に動けた

炭水化物を取ったその日は、特に大きな問題は起きなかった。

自転車にも乗れるし、仕事もできる。食べた直後に身体が急激に重くなり、何もできなくなったわけでもない。

「あれ。今なら問題ないのかも」

そう思った。

一日で明らかに崩れていれば、その時点でやめていたと思う。しかし普通に動けてしまったので、もう一日くらい続けても大丈夫なのではないかと考えた。

そして、もう一日続けた。

二日、三日と続けると、少しずつ落ちてきた

二日、三日と続けるうちに、身体のパフォーマンスと回復力が少しずつ落ちてきた。

ただ、この段階でも完全に動けないわけではない。自転車には乗れるし、配達もできる。だから、「炭水化物を食べたらすぐ駄目になった」という分かりやすい崩れ方ではなかった。

最初に感じたのは、いつもより身体の戻りが悪いことだった。

仕事が終わったあとの疲労が抜けにくくなり、翌日も同じ状態まで戻らない。そのまま続けていると、普段どおりの時間を稼働すること自体が難しくなっていった。

しかし、今回いちばん違和感があったのは、身体が完全に動かなくなったときではない。

その少し前だった。

最初は、運動で相殺できているように見えた

今回の流れを振り返ると、炭水化物とフーデリ稼働の間には、少しずつ悪い方へ回る循環があった。

長時間走った日は、炭水化物や甘いものが良い感じにうまい。ケーキや菓子パンを食べても、翌日は前日の運動量で相殺されているのか、意外と普通に動ける。

「結構、大丈夫やな」

そう思うので、また食べる。次の日もそれなりに走れるので、さらに続ける。

ところが何日かすると、稼働へ出ることが少しずつ億劫になり、自転車を漕ぐ楽しさも薄れてくる。疲れも残り始めるので、稼働時間が短くなり、当然ながら運動量も減る。

それでも、炭水化物のうまさはもう思い出している。運動量が減ったからといって、食べたい気持ちまで同じように減るわけではない。前日ほど走っていないのに、同じくらい食べる。

すると、さらに稼働へ出たくなくなる。家で疲れを癒やすことにして、時間ができる。その時間で、今度はあれこれ食べることを楽しみ始める。

走ったから食べる。食べても動けたから、また食べる。やがて走る量だけが減り、食べる方は残る。

わたしの場合、そんな流れで少しずつ「無限モード」から離れていった。

辛くないのに、もう漕ぎたくない

ペダルを漕ぐ脚は、まだ良い感じで動いていた。

息が苦しいわけでも、脚が痛いわけでもない。自転車を漕ぐこと自体は、普通にできる。

それなのに、配達を続けていると飽きてくる。

辛いから嫌なのではない。辛くないのに嫌なのである。

これはかなり妙な感覚だった。

普段のわたしは、すでに何千回も繰り返した配達であっても、自転車を漕ぐこと自体からかなり気持ちよさを受け取っている。

天気のいい日に外へ出て、自分のペースで身体を動かし、商品を受け取って届ける。それだけで普通に気分がいい。

この状態を、わたしは「無限モード」と呼んでいる。

ところが炭水化物を連続して取っている間、その感度が少しずつ消えていった。

身体はまだ動く。それでも、何千回も繰り返してきた配達が、ただの退屈な反復に見え始める。

今回、最もはっきりと変化を感じたのは、この「無限モード」から普段の状態へ移る途中だった。

固定シフトの仕事が、急に魅力的に見えた

同じ頃、別の変化も起きていた。

「別にUberを続けなくてもいいのではないか」

そう考えることが増えた。

決まった時間に出勤し、決まった時間まで働き、安定した給料を受け取る。毎日いつ働くかを自分で決めるより、固定シフトの仕事へ移った方が楽なのではないか。

もちろん、この判断自体がおかしいわけではない。

無限の波紋の土台はかなりできあがったので、今後は普通の仕事をしながら、その前後や休日に文章を書けばいい。この考えは、身体の状態が戻った現在でも変わっていない。

フードデリバリーという働き方に以前ほどこだわらなくなった理由は、「フーデリでなければならない理由が、なくなってきた」にも書いた。

ただ、気になったのはその見え方だった。

それまで普通に幸福を感じていた配達が退屈になったのと同じ時期に、固定シフトへ移る選択肢が急に強く見え始めた。

仕事の条件が変わったわけではない。Uberの仕組みが突然変わったわけでも、自転車が壊れたわけでもない。

変わったのは、同じ選択肢を見ているわたしの側だった。

この部分については、「人生が不安定なのは、計画した自分と実行する自分が違うから」で詳しく書いた。

働けないのではなく、自分から気持ちよく動けない

ここは、かなり重要な違いである。

炭水化物を続けて取ったときのわたしでも、普通の雇われ仕事なら、「ちょっと今日はだるいな」くらいの感覚で働ける。

決まった時間に出勤し、組織の中で与えられた仕事をし、終業時間まで働く。そこにはシフトや上司、同僚、給料といった外側の強制力がある。

今回見ているのは、その水準ではない。

誰にも出勤を命じられない状態で、自分で外へ出る時間を決め、何時間働くかを決め、何千回も繰り返した配達を、自分から心理的な摩擦なく始められるか。そして、その時間を苦役ではなく、普通に気持ちいいものとして受け取れるか。

そこを見ている。

家族を養うために走らなければならないとか、今日稼がなければ生活できないとか、そういう切迫した状況とも違う。そのような事情があれば、多少状態が落ちていても走ると思う。

しかし、それでは「走れるかどうか」は分かっても、「自然に走りたくなる状態かどうか」は分からない。

仕事なのだから辛いのは当たり前、という考えも、ここでは採用していない。

できるか、できないかではなく、いかに心理的な摩擦なく、気持ちよくできるか。正直、かなり贅沢な基準である。

ただ、わたしが「無限モード」と呼んでいるのは、まさにその贅沢な状態である。

炭水化物は、身体能力より先に感度を落とした

今回の変化を振り返ると、いきなりすべてが崩れたわけではない。

一日目は普通に動けた。だから、今なら問題ないのではないかと思った。

二日、三日と続けると、身体の出力と回復力が少しずつ落ちた。その途中で、脚はまだ動くのに、配達から受け取っていた気持ちよさが先に消えた。

さらに続けると、普段どおりの稼働時間そのものを維持できなくなった。

少なくともわたしの場合、炭水化物を連続して取ったときに起きたのは、食後に少し眠くなるといった一時的な変化だけではなかった。

身体の回復力が落ち、弱い刺激から幸福を受け取る感度まで薄くなっていった。

炭水化物を一日取っただけでは、この変化には気づけなかったと思う。普通に動けたからこそ、「もう大丈夫なのではないか」と考え、そのまま何日か続けた。

結果として、それが一日では見えなかった変化を確認する実験になった。

現在のわたしには、主食を常食しない方が合っている

今回の記録だけで、炭水化物が誰にとっても悪いと言うつもりはない。

わたしが確認したのは、現在の自分の身体で、他の生活条件をほとんど変えずに炭水化物を連続して取ると、何が起きるかである。

一日なら普通に動けた。しかし、続けると回復力が落ち、普段の稼働時間を維持できなくなり、配達そのものへの感じ方まで変わった。

この結果を見る限り、米、パン、麺などの主食を常食しないことは、現在のわたしが「無限モード」を維持するうえで、かなり重要な条件である。

ただし、今後は炭水化物や糖質の多いものを一切食べない、と決めたわけではない。この点は断酒とは少し違う。

普段からかなり身体を動かしているので、月に一、二回ほど、パスタやピザ、寿司、菓子などを食べることは普通にあり得ると思っている。今のところ、その可能性まで閉じるつもりはない。

それでも、常食にはしない。日々の食事の基本にも戻さない。今回の実験で決まったのは、そこまでである。

一日食べて平気だったことと、毎日食べても平気であることは、同じではなかった。

まあ、普通に動けた一日目で終わっていたら、今頃は「炭水化物、別にいけるやん」で終わっていたと思う。

「無限モード」そのものについては、「無限モード」とは何か。問題が消えなくても、念が残らなくなる状態にまとめている。

現在続けている食事や生活習慣の全体像は、「借金455万円の生活を『至福』に変えた、六つの習慣」にまとめている。

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