「あの人は意志が強い」
よく使われる言葉である。
毎朝早く起きて勉強を続けている人。厳しい食事制限を守っている人。何年も一つの目標へ向かって努力している人。そういう人を見ると、わたしたちは簡単に「意志が強い」と評価する。
わたしも普通にこの言葉を使ってきた。ただ、最近は少し違和感がある。
わたしたちは、いったい何を見て「意志が強い」と言っているのだろう。
相手も、自分と同じくらいつらいのだろうか
たとえば、わたしが勉強を非常につらいと感じる人間だったとする。
机に一時間座っているだけでも苦痛で、すぐに別のことをしたくなる。そんな自分の目の前で、毎日五時間、十時間と勉強を続けている人がいたら、「あの人は意志が強い」と感じるのは自然だと思う。
しかし、そこには一つ、確認できていない前提がある。
その人も、わたしと同じくらい勉強を苦痛に感じているのだろうか。
本人にとっては、勉強そのものがそれほど嫌ではないかもしれない。新しいことを知るのが面白い。問題が解けることに快感がある。成績が上がっていくのを見るのが楽しい。場合によっては、こちらが動画やゲームを楽しむのと、それほど変わらない感覚で勉強している可能性もある。
それなのに、自分にとって勉強が苦痛だからという理由で、相手も同じ苦痛に耐えていると考え、その姿を見て「意志が強い」と評価しているのだとしたら、少し話が違ってくる。
苦痛が同じでも、行動まで同じになるとは限らない
では仮に、二人が勉強そのものに感じている不快感がほとんど同じだったらどうだろう。
どちらも勉強が嫌いで、机に座れば逃げたくなる。それでも一人は毎日続け、もう一人はやめてしまう。
これなら前者は「意志が強い」と言ってよさそうにも見える。ただ、まだ分からない。
勉強を続けている人は、試験に落ちることを強烈に恐れているかもしれない。将来仕事に就けなくなることが怖いのかもしれない。親を失望させたくないのかもしれないし、同級生に負けるのが耐えられないのかもしれない。今いる環境からどうしても抜け出したいという危機感が、その人を机へ向かわせている可能性もある。
勉強の苦痛が同じでも、それ以外のものが違えば行動も変わる。
勉強することが80の苦痛だとしても、勉強しなかった未来への恐怖が100なら、勉強する方へ動くかもしれない。逆に、その恐怖が20しかなければ、「今日はもういいか」となるかもしれない。
外から見えるのは、一人は続け、一人は続かなかったという結果だけである。そして、その結果を見て「意志が強い」「意志が弱い」と名前をつける。
しかし実際には、不安、恐怖、期待、興味、習慣、競争心、承認欲求、危機感など、いくつもの要素が重なった末に行動の差が出ているのかもしれない。
それらを全部まとめて「意志の強さ」と呼んでしまうと、何がその人を動かしているのかはほとんど見えなくなる。
十時間勉強すると「意志が強い」。十時間ゲームすると、あまり言われない
もう一つ気になることがある。
毎日十時間勉強している人は、「すごい。意志が強いね」と言われることがある。
しかし、毎日十時間ゲームをしている人に、「ものすごく意志が強いですね」とはあまり言わない。むしろ、「意志が弱いからゲームをやめられない」と評価されることすらある。
少し妙な話である。
どちらも、一つの対象へ長時間向かい続けているという意味では似ている。それでも片方だけが「意志が強い」と評価されるのは、勉強を続けることを望ましいと考える価値観が先にあるからだろう。
そう考えると、「意志が強い」という言葉は、本人の性質だけを表しているわけではない。それを見ている側が、その行動をどう評価しているかまで混ざっている。
「意志が強いから続けられる」は、説明になっているのか
さらに考えてみると、「なぜあの人は毎日勉強できるのか」という問いに、「意志が強いから」と答えることにも少し違和感がある。
続けられる人を「意志が強い人」と呼んでいるのであれば、「続けられるのは、続けられる人だからです」と言っているのと、それほど変わらない。
名前をつけただけで、原因はまだ分かっていない。
なぜ続けられるのか。勉強そのものが好きなのかもしれないし、失敗するのが怖いのかもしれない。すでに習慣になっていて、それほど判断を必要としないのかもしれない。成功した未来をかなり具体的に想像できる人なのかもしれない。過去に努力して結果が出た経験があり、「やれば結果が出る」という感覚が強い可能性もある。
そこまで見て、ようやく少し原因に近づく。
「意志が強い」は便利な言葉ではある。ただ、原因を考えたいときには、便利すぎる言葉でもある。
自分を「意志が弱い人間」と決める必要もない
これは、他人を見るときだけの話ではない。
勉強が続かない。運動が続かない。酒をやめられない。何かを始めても三日で終わる。
そういうことが重なると、「わたしは意志が弱い」と自分を評価したくなる。しかし、その言葉だけではやはり何も分からない。
その行為にどれくらい苦痛を感じているのか。続けた先の報酬をどれくらい現実的に感じているのか。やめることで何を失うのか。別にもっと強い欲求があるのか。そもそも、その目標を本人が本当に望んでいるのか。
一つずつ分けていけば、「意志が弱い」という人格の問題とは違うものが見えてくることがある。そして原因が違うなら、変える場所も違う。
努力できること自体が、最初から与えられているのかもしれない
さらに遡ると、少し面倒なところへ行く。
ある人が、一つの対象に異常なほど興味を持っているとする。朝から晩までそれを考え、何年やっても飽きない。
外から見れば、凄まじい努力をしている。しかし本人からすれば、ただ面白いからやっているだけかもしれない。
では、その「面白くて仕方がない」という感覚は、本人が努力して作ったものなのだろうか。
音楽に異常な興味を持つ人がいる。数学ばかり考えていたい人がいる。商売の仕組みを考えているだけで何時間でも過ごせる人もいる。
本人は確かに、自分の意志でそれをやっている。ただ、何に強く興味を持つ人間になるかまで、自分で決めたわけではない。
ここまで考えると、「才能」と「努力」の境目も少し曖昧になってくる。
最初から上手にできることだけが才能なのではなく、人よりはるかに長く、それをやり続けたくなること自体も、一つの才能なのかもしれない。
外から見れば努力で獲得した能力でも、その努力を生んだ強烈な興味まで遡れば、本人が最初から選んだものではない可能性がある。
「意志が強い」で終わらせず、何がその人を動かしているのかを見る
わたしは、「意志が強い」という言葉を使うべきではないと言いたいわけではない。日常会話なら、それで十分なことも多い。
ただ、その人がなぜそう行動しているのかを本当に考えたいなら、「意志が強い」で止めるとかなりのものを見落とす。
続けている人を見たときも、続けられない人を見たときも、何がその人をそこへ向かわせているのか。何がそこから離れさせているのか。
わたしは最近、そちらを見る方が面白いと思うようになった。
そして、この問いをさらに遡っていくと、「では、その人の中に生まれる意志そのものは、誰が選んだのか」というところへ行き着く。
そこから先は、自由意志の話になる。わたしが自由意志をどう考えているかについては、自由意志がないなら、犯罪者は悪くないのかで詳しく書いた。


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