他人の評価を、自分の現実にしない

同じ人物を異なる姿に映す複数のガラス板を見つめる人 生存戦略

人は、自分が見ている世界を、そのまま現実だと思いやすい。

目の前にいる人を見て、「優しい人だ」と思う。「嫌な人だ」と思う。ある仕事について、「楽しそうだ」と感じることもあれば、「自分には絶対無理だ」と感じることもある。

しかし、わたしたちは対象そのものを、そのまま見ているわけではない。

そこには、それまでの記憶がある。経験がある。その人なりの価値観や期待もある。

同じものを見ても、人によってまったく違うものが見える。以前、同じ動画を見た人たちの反応を分けながら、この違いを「同じ動画を見ても、人は別の現実を見る」に書いた。

そんなことを考えていたとき、一つの極端な例が頭に浮かんだ。

同じ母親が死んでも、起きることはまったく違う

ここに、花子さんという女性がいるとする。

花子さんには一人の子どもがいる。

まず、その子が花子さんからずっと愛情を受けて育った人生を考えてみる。

幼い頃には手をつないで歩き、ご飯を作ってもらい、ときには叱られ、困ったときには助けてもらった。そうして何十年もの時間を一緒に過ごしたあと、ある日、花子さんが事故で亡くなる。

その知らせは、子どもの人生を大きく揺らすだろう。

悲しみは、その日だけでは終わらないかもしれない。何年経っても、ふとした景色や食べ物、何気ない言葉から母親を思い出すこともある。

では、別の人生ではどうだろう。

同じ花子さんが、その子を物心がつく前に手放したとする。

子どもは別の場所で育ち、自分を産んだ母親の名前も顔も知らないまま大人になった。

そしてある日、テレビを見ていると、

「花子さんが殺害されました」

というニュースが流れてくる。

その人にとって、それは時々目にする悲しいニュースの一つでしかない。

「気の毒だな」

そう思って、そのまま日常へ戻るかもしれない。

ところが、物理的な事実だけを見れば、二つの人生で起きたことは同じである。

自分を産んだ実の母親である花子さんが死んだ。

違うのは、それまでに形成された記憶である。

最初の人生には、何十年分もの「花子さん」がいる。

声や表情だけではない。一緒に過ごした時間、助けてもらった経験、これからも会えるという感覚まで含めて、「花子さん」という一人の人間に膨大な記憶がつながっている。

もう一方には、それがない。

その違いだけで、同じ物理的事実が、人生を揺るがす出来事にも、名前も知らない誰かのニュースにもなる。

考えてみれば当たり前の話である。

ただ、この当たり前を本気で前提にすると、人が見ている「現実」というものが少し違って見えてくる。

わたしたちは、起きた出来事そのものをそのまま経験しているわけではない。

それまでに作られた記憶の世界の中で、その出来事を経験している。

他人が見ている人と、わたしが見る人は同じではない

これは人間関係でも同じである。

誰かから、

「あの人、かなり性格悪いよ」

と聞いたとする。

その人は嘘をついているわけではないのかもしれない。実際に嫌なことをされたり、何度も衝突したりして、その人の中では本当に「性格の悪い人」になっている。

しかし、わたしが受け取っているのは、その人物そのものではない。

その人が、その人自身の経験を通して見た人物像である。

わたしが実際に会えば、まったく違う印象を持つかもしれない。

だからといって、どちらかが間違っているとも限らない。

同じ人間でも、相手が変われば関係性は変わる。ある人には親切でも、別の人とは何度も衝突することだってある。

そう考えると、誰かの評価を聞いた時点でわたしが知ったのは、

「その人はこういう人間である」

という事実ではなく、

「この人の世界では、その人はこう見えている」

という情報なのだと思う。

これは人に限らない。

「あの会社は最悪だった」

「あの街はつまらない」

「あの仕事はきつい」

「あの商品は使いにくい」

どれも、その人の経験としては本当なのだろう。

だから、こうした評価を無視する必要はない。むしろ、知らないことを知るための情報としてかなり役に立つ。

ただし、それをそのまま自分の結論にするかどうかは別の話である。

他人の結論を、自分の経験の代わりにしない

わたしは昔から、わりと何でも自分で試す。

実際に使ってみる。働いてみる。行ってみる。食べてみる。気になった生活習慣があれば、しばらく続けて変化を見る。

なぜそうするのか。

以前なら、単に好奇心が強いからだと思っていた。

しかし、こうして考えてみると、それだけではないように思う。

他人の経験から出てきた答えと、自分に起きることは同じとは限らない。

この感覚がかなり強い。

誰かにとって最悪だったものが、わたしにも最悪とは限らない。

反対に、世間で絶賛されているものが、わたしにも合うとは限らない。

仕事でもそうだった。

一般には良い仕事だと思われていても、毎日それを続けることがわたしにとって苦痛なら、わたしの生活には合っていない。

逆に、世間ではあまり良く見られていない仕事でも、実際にやってみると、自分には自由度が高く、身体にも合い、考える時間まで確保できることがある。

生活習慣についても同じだった。

断酒も、一日一食も、食事の内容も、働き方も、最初から正解を知っていたわけではない。

自分で試し、そのとき自分に何が起きるのかを見る。

合わなければやめる。良ければ続ける。

それを繰り返してきただけである。

自分でやってみれば、少なくとも一つだけは増える。

自分の場合はどうだったか、という情報である。

評判だけで生きると、まだ見ていない世界まで消えていく

他人の評価は便利である。

自分で全部を経験することなどできないし、危険を避けるためにも他人の経験は役に立つ。

ただ、その便利さには一つ落とし穴がある。

評価をそのまま現実として採用してしまうと、自分ではまだ何も見ていない段階から選択肢が消えていく。

会ったことのない人を避ける。

行ったことのない場所を候補から外す。

やったことのない仕事を「自分には向いていない」と決める。

試したことのない生き方を「そんなの無理だ」と考える。

もちろん、大きな危険や取り返しのつかない損失があるものまで、何でも試す必要はない。

しかし、失敗してもほとんど困らないことなら、一度自分で見てみる余地は残しておきたい。

わたしが「やってみなければ分からない」と考えるのは、挑戦することそのものを美徳だと思っているからではない。

失敗を恐れるな、と言いたいわけでもない。

もっと単純で、

まだ自分が経験していないものについては、自分の答えがまだない。

それだけのことである。「分からない」を曖昧な逃げとして使うのではなく、どこまで分かっていて、どこから先はまだ分からないのか。その境界については「分からないものを、分かったことにしない――わたしにとっての「無知の知」」に書いている。

他人の答えなら、いくらでも手に入る。

口コミもある。SNSもある。詳しい人の意見もある。

わたしもそれらを参考にはする。

ただ、そこで最後まで残るのが、

「では、自分の場合はどうなのか」

という部分である。

そこだけは、他人の経験では完全には埋まらない。

だから、できるものは自分で確かめる。

そして結果を見て、また考える。

振り返ってみると、わたしの生き方にはこの繰り返しがかなり多かった。

何か特別な哲学を先に決め、その哲学に従って生きてきたわけではない。

いろいろ試しているうちに、他人の評価は、その人の世界では正しくても、それだけで自分の世界まで決まるわけではないという感覚が強くなっていった。

人は、それぞれ自分の記憶の中から世界を見ている。

そして、他人だけではなく、自分自身も価値観を通して世界を見ている。その価値判断を地球や宇宙の意志にまで広げていないかは、「「地球にとって良い」は、本当に地球の価値観なのか」で考えた。

だからわたしは、誰かが見た世界を参考にはしても、自分がまだ見てもいない世界まで、その人の結論で閉じたくない。

わたしにとって「やってみなければ分からない」とは、勢いよく行動するための掛け声ではない。

まだ持っていない自分の答えを、自分で確かめに行くための姿勢である。

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