わたしは、究極的に言えば何も信じていない。
国も、企業も、他人も、自分自身も信じていない。
このように書くと、ひどい人間不信に陥った寂しい人間のように見えるかもしれない。過去に誰かから裏切られ、傷つくことを恐れるあまり、誰にも心を開けなくなった人を想像する人もいるだろう。
しかし、わたしが言っているのは、そういう話ではない。
誰かが裏切るのではないかと怯えているわけでもなければ、国や企業はすべて悪だと決めつけているわけでもない。ただ、人間や、人間が作った仕組みを、今後も百パーセント同じ動きを続けるものとして扱っていないだけである。
一般的な人間不信の中心にあるのは、漠然とした恐れだ。
裏切られるかもしれない。騙されるかもしれない。大切なものを失うかもしれない。その可能性が頭から離れないため、相手の言動を監視し、何度も愛情や忠誠を確認しなければ落ち着かない。
一方、わたしがここで書こうとしているのは、人間への恐怖ではなく、人間がどういう条件で動く生き物なのかを理解したうえでの心の準備である。
「信じる」のではなく、観察する
一般的に「信じる」とは、相手が今後も自分の予想どおりに動くと思うことだ。
この人は誠実だから、約束を破らない。この会社は大企業だから、利用者を守る。この国には法律があるから、不当な扱いは起きない。今まで大丈夫だったのだから、これからも大丈夫だろう。
しかし、実際に確認できるのは、「過去と現在の行動」だけである。
十年間約束を守ってきた人がいるなら、観察できた事実は「その人が十年間、特定の条件下で約束を守ってきた」ということだ。その事実から、次も同じように行動する可能性が高いと予測することはできる。
だが、その人が未来のあらゆる状況でも、必ず同じ行動を取ると保証されたわけではない。
生活が苦しくなったとき、大金を手にしたとき、別の人を好きになったとき、周囲から強い圧力を受けたとき、病気や疲労によって判断力が変わったとき。その人がまだ置かれたことのない条件で、どのように動くのかは分からない。
それを「この人は信頼できる人間だ」という、固定された人格として捉える必要はない。
今の条件では、こう動いている。過去の傾向を見る限り、次も同じように動く可能性は高そうだ。ただ、それだけである。
これは信頼や信用ではなく、観察と確率の話だ。
予測が外れたときも、「信じていたのに裏切られた」と落ち込んだり、悲しんだり、怒ったりするのではなく、「今回は予測が外れたのだ」とただ理解する。何らかの条件が変わったのか、こちらが観測できていなかった要素があったのかもしれない、と。
損害が出れば対処するし、必要なら関係を終わらせる。ただし、予測と違うことが起きたという事実に、必要以上の意味を与えない。
「信じる」というポーズ
多くの人は、奥底では人間が変わることを知っている。
恋人が別れることもある。夫婦が離婚することもある。親が子どもを守らないこともある。会社が従業員を切ることもあれば、国が自ら作ったルールを破ることもある。
それでも、人は「わたしはあなたを信じている」と言う。
信じない人間は冷たい。誰も信じない人間は寂しい。最後まで信じ続ける人間は温かく、愛情深い。社会には、そのような物語があるからだと思う。
だから実際には不確実性を感じていても、自分は信じられる人間であるというポーズを見せる。相手を信じていることを伝えるというより、自分が冷たい人間ではないことや、この関係から降りるつもりがないことを示している。
恋人同士が「絶対に裏切らない」と言い合う。企業が「お客様を第一に考える」と掲げ、国が「国民の暮らしを守る」と約束する。
その時点では、本気でそう思っているのかもしれない。嘘をついているとは限らない。
ただ、それは現在の条件下で表明された意思であって、未来のあらゆる状況でも同じ意思が維持されるという物理的な保証ではない。
口では信頼の大切さを語りながら、現実の社会には契約書、鍵、保険、保証制度、裁判所が存在している。社会そのものが、信じるという言葉だけでは現実が回らないことを理解している。
それでも表面では「信じることは美しい」と言い続ける。その方が、温かい人間関係に見えるからだろう。
国が守ってくれることもあれば、守ってくれないこともある
国は、わたしを守ってくれることがある。
法律が正常に機能することもあるし、制度に申請すれば、決められた支援を受けられることもある。その可能性は十分に高いから、使える制度は使えばいい。
一方で、守られないこともある。
担当者が間違えるかもしれない。組織が都合の悪い事実を隠すかもしれない。法律に書かれていることとは異なる運用が行われる可能性もある。権力を持つ側が、自ら作ったルールを破ることも、歴史上いくらでも起きてきた。
これは「国は必ず国民を裏切る」という話ではない。反対に、「国はいつでも国民を守る」という理想を、現実の保証として受け取らないというだけだ。
守ってくれることもあれば、守ってくれないこともある。自分が後者に入ったなら、「今回は例外側に入ったか」と理解し、そこから必要な処理を始める。
もちろん、黙って受け入れる必要はない。抗議もするし、異議申立てもする。裁判やその他の制度を使うこともあるだろう。
ただし、「国がこんなことをするはずがない」と、起きた現実そのものを拒絶し続けても何も進まない。人間が運営する仕組みである以上、理想どおりに機能しない場合もある。その可能性まで含めて理解したうえで、自分がどう動くかを考える。
この理解を突き詰めていくと、自然に分散と脱依存へ向かう。
国の制度は利用するが、国だけに老後を預けない。日本で生活するが、日本以外では生きられない状態にはしない。実際に海外へ移住するかどうかとは別に、複数の場所で生活できる能力や収入経路を準備しておく。
国を敵視しているからではない。一つの仕組みに、自分の生存を百パーセント預けないだけである。
Uberがわたしを裏切ったわけではない
これは、わたしが現在使っているUberという仕組みでも同じだった。
以前のわたしは、真面目に配達していれば正しく評価されると思っていた。きちんと仕事をしていれば不当な警告は来ないし、顧客のためにならない配車は行われない。問題が起きれば、個別の事情を確認したうえで処理してもらえる。
だが、Uberは一人の誠実な雇用主ではない。
大量の注文、店舗、客、配達員を同時に動かし、全体として配達を成立させようとする巨大なシステムである。全体の効率を優先する過程で、一人の客が不満を持つこともある。一人の配達員が理不尽な評価を受けることもあれば、事情を十分に確認しないまま警告が送られる可能性もある。
一件の不満や誤判定も発生させないことを、最上位の目的として作られた仕組みではない。
そこを理解せず、日々起きる出来事に対して、「こんな配車はおかしい」「正しく働いたのに、なぜ評価されない」と腹を立てていた。
Uberがわたしを裏切ったのではない。わたしがUberを、自分の中で勝手に『信頼のおける大企業』『誠実なサポートも当然受けられる』『まじめに働けば正しく評価される』と勘違いしていたのだ。
だが、一度仕組みを理解してからは、Uberを信じることも、憎むこともなくなった。
今日アカウントが使えるなら使う。提示された案件を、自分の安全を最優先に処理する。不当な警告が来たら、記録を残して異議を申し立てる。使えなくなったら、別の仕事へ移る。
感謝や信頼を求める必要もなければ、毎日起きる仕様へ怒り続ける必要もない。現在の条件を観察し、その中で自分にとって都合のよいポジションを取っていくだけである。
自分自身も信じない
わたしが信じていないのは、国や企業や他人だけではない。自分自身についても同じである。
「わたしは意志が強いから酒を飲まない」とは考えない。
疲労やストレスが重なり、目の前に酒が置かれていれば、未来の自分がどのように動くかは分からない。だから、酒を飲まない自分を信じるのではなく、酒を置かないようにする。
安全運転のできる自分を信じるのではなく、フーデリ稼働で焦りを生む「報酬額や件数」をなるべく見ない。毎日執筆できる自分を信じるのではなく、疲れている日でも着手できる量まで作業を小さく分解して取り組むようにする。
自分の人格や意志を信頼する代わりに、どのような条件で、どのような行動が起きるのかを観察する。そして、望ましい行動が起きやすいように環境を作る。
これは自己否定ではない。
自分だけは環境の影響を受けない、特別な人間であるという勘違いをしていないだけだ。
現在のわたしは約束を守るつもりでいる。だが、未来のわたしがどのような条件に置かれるのかは分からない。それなら、自分の人格を信じるよりも、約束を破りにくい環境や、破った場合にも被害が広がりにくい仕組みを作っておく方が現実的である。
必要なのは悟りではなく、理解
これが、無限の波紋における一つの基本的なスタンスなのだと思う。
必要なのは「悟り」ではなく、「理解」である。
悟りという言葉には、何か特別な境地へ到達し、執着や自我を超え、何が起きても動じない人間になるという印象がある。それは、ごく一部の人間だけが到達できる超常的な状態のようにも見える。
だが、人間の構造を「理解」することなら、もっと身近な可能性になる。
人間は環境や身体の状態によって変わる。感情は永遠には続かない。現在の約束は未来の保証ではない。国や企業の制度には例外がある。自分自身も、状況が変われば考えや行動が変わる。
その因果関係を理解すればいいのだ。
エゴを消す必要はない。裏切られても平気な人間になる必要もなければ、何も求めない聖人になる必要もない。
理解とは、現実を受け入れて何もしないことではない。むしろ、現実が理想どおりに動かない可能性を認めるからこそ、具体的な準備が始められる。
悟ることで心を変えるのではなく、理解した構造に沿って、自分のポジションを柔軟に変化させていく。
そうして、やるべきことを一つずつ淡々と処理していく。
何も神にしない
何も信じていないといっても、何も利用しないわけではない。
国の制度は利用する。企業のサービスも便利に使う。誰かと一緒にいたいと思えば、一緒にいる。自分の意思で決めたことにも取り組む。
ただ、それらを絶対的な「神」にはしない。
永遠に変わらないものとして扱わず、百パーセントの保証を与えない。
約束を守ってきた人がいるなら、次も守る可能性は高い。長期間正常に機能してきた制度があるなら、明日も機能する可能性は高い。今日使えているUberアカウントも、明日すぐに消える可能性より、引き続き使える可能性の方が高いだろう。
わたしは、その確率を見て行動する。
しかし最後に、「それでも信じるしかない」という精神的な飛躍を加えない。可能性が高いものは利用し、外れた場合の出口も作っておく。
脱依存とは、誰にも何にも頼らず、一人で生きることではない。
複数の人、制度、企業、場所を利用しながら、そのうち一つが消えても生きられる状態を作ることである。
誰かと一緒にいるときも同じだ。
信じているから一緒にいるのでもなければ、信じていないから離れるのでもない。現在の条件では、互いに一緒にいたいと思っている。だから今日、一緒にいる。
未来を保証しないからこそ、現在の関係をそのまま受け取ることができる。
疑っているからではない。恐れているからでもない。
信じるという「幻想」ではなく、「現実」を見るようにしているだけだ。
それが、現在のわたしのスタンスである。


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