年齢は時計の情報であり、老化は身体の状態の情報である。
少し前から、「加齢によって」という言葉に妙な違和感があった。
たとえば、「加齢によって血管が硬くなる」「加齢によって筋力が落ちる」「加齢によって代謝が落ちる」。こうした説明は、ごく普通に使われている。わたし自身も、以前は特に引っかからずに聞いていた。
しかし、高血圧や血管について考えていたとき、ふと疑問が出てきた。
加齢って、原因なのだろうか。
80歳の人が二人いたとして、身体の状態がまったく同じとは限らない。筋力がかなり維持されている人もいれば、大きく落ちている人もいる。血管、内臓、脳、代謝などにも個人差がある。
それなら、「80歳になったこと」がその状態を作った原因だと考えるのは、少し雑ではないだろうか。80年という外部時計の経過そのものが、直接的に血管へ何かをしているわけではない。
そこで、「年齢」というものを一度分解して考えてみることにした。
年齢は、身体の状態を測っているわけではない
普段わたしたちが使っている年齢は、かなり単純なものである。生まれた瞬間を0として、そこから何年経過したか。48年なら48歳、80年なら80歳。それだけである。
そこには、筋肉量も血管の状態も脳機能も肝臓の状態も入っていない。
つまり、年齢は身体の状態を表す数字ではなく、外部時計がどれだけ進んだかを表す数字である。
それなのに、わたしたちは「80歳」という数字を見ると、そこへ自動的に「身体もこれくらい老化しているだろう」というイメージまで重ねている。
もちろん、年齢と身体の状態が無関係なわけではない。人間は同じ種であり、同じ地球上で、かなり似た環境の中を生きている。個人差はあるとしても、全員がまったく別の条件で生きているわけではない。
だから集団として見れば、年齢が高くなるほど、身体にも一定方向の変化が蓄積していることが多い。年齢は、身体の状態を推測するうえで重要な情報になる。
ただし、目安になることと、原因であることは別である。
ここは分けて考えた方がいい。
「加齢によって」は間違いなのか
だからといって、医学で使われる「加齢によって」という表現が間違っていると言いたいわけではない。
おそらく多くの場合、「暦年齢という数字そのものが身体を変化させる」という意味ではなく、時間の経過とともに身体内部で蓄積していく様々な変化をまとめて表現しているのだと思う。
わたしが引っかかったのは、むしろその言葉が便利すぎることである。
「加齢によって」と聞くと、それだけで何となく原因まで説明されたような気になってしまう。しかし実際には、その一言の中に、「何が変化したのか」「なぜ変化したのか」「どの程度変化したのか」「その変化にはどれくらい個人差があるのか」「変えられる部分と変えられない部分はどこなのか」といった大量の情報が圧縮されている。
だから問題なのは、「加齢」という言葉そのものではない。
その一語で、中で起きていることまで分かった気になってしまうことだった。
同じ一年でも、身体の中では同じ一年ではない
二人の人間が、同じ日に50歳になったとする。一年後、二人とも51歳になる。カレンダー上では、完全に同じ一年が経過した。
しかし、その一年の間に身体内部で起きた変化まで同じとは限らない。
片方は病気になったかもしれないし、もう片方は運動を始めたかもしれない。睡眠、食事、酒、体重、活動量、疾患、薬、ストレスなど、身体に影響する条件はいくらでもある。
もちろん、その違いは本人が選んだ生活だけで決まるわけでもない。遺伝、疾患、身体が持つ修復能力など、自分では選べない条件も大量に含まれている。
一年後、片方は筋力を失い、血圧も悪化した。もう片方は筋力が増え、体重が減り、血圧も改善した。そういうことは十分あり得る。
それでも暦年齢としては、二人とも平等に一歳増えている。
ここで「二人とも一歳老化した」と表現すると、かなり違うものを一つの言葉でまとめていることになる。
外部時計では、二人とも同じ一年が進んだ。しかし、身体内部では同じ方向へ同じ量だけ変化したわけではない。
この二つは、別の情報である。
そう考えていたとき、なぜか相対性理論が頭に浮かんだ。
老化と相対性理論が、妙に重なって見えた
もちろん、老化と相対性理論が同じ現象だと言いたいわけではない。物理学上は別の話である。
相対性理論では、速度や重力などの条件が異なると、異なる経路をたどった時計を後から比較したとき、それぞれに刻まれた時間に差が生じる。
一方、老化の話では、同じ暦時間を過ごした身体であっても、その間に起きた状態変化に差が生じる。
相対論では時計そのものが異なる固有時間を刻む。一方、老化では同じ暦時間の中で身体の状態変化に差が生じる。物理的には別の話である。
ただ、わたしにはその構造が妙に似ているように見えた。
片方では、速度や重力という条件によって時計が刻む時間に差が生じる。もう片方では、体内環境や生活条件などによって身体内部の変化量に差が生じる。
同じ話ではない。それでも両方とも、「外から同じ期間として区切ったのだから、内部でも同じだけ進んだはずだ」という直感を崩す。
そこだけが、不思議なくらい重なって見えた。
外部時計と、身体内部の変化
日常生活の範囲では、50歳から60歳までの10年間は、誰にとっても同じ10年として扱って問題ない。時計もカレンダーも同じように進む。
しかし、その10年間に身体で何が起きたのかは別の話である。
ある人の10年間では大きな変化が起きるかもしれない。別の人では、それほど大きな変化が起きないかもしれない。さらには、同じ人の身体の中でも、すべてが同じ速度で変化するとは限らない。
筋肉、血管、骨、脳、内臓。それぞれが別々の状態を持っている。
そう考えると、いわゆる「生物学的年齢」を一つの数字で表す場合にも、本来は身体各部の大量の情報をまとめていることになる。
ここで、「加齢」という言葉に感じていた違和感がかなりはっきりした。
わたしたちは、外部時計の進みと身体内部の変化を、ほとんど一本の線として扱っている。しかし、本来は別のものではないだろうか。
「時間が経ったから老化した」で終わらせない
「時間が経ったから老化した」という言い方は、日常会話としては何も問題ない。
ただ、原因を考えるときには、それだけではかなり粗い。
時間という何かが身体へ入り込み、血管を硬くしたり、筋肉を減らしたりしているわけではない。実際に身体で起きているのは、物理的、化学的、生物学的な変化である。
壊れるものがあり、修復されるものがあり、入れ替わるものがある。増えるものもあれば、減るものもある。そうした無数の変化が積み重なり、その結果として現在の身体がある。
その身体を外部時計と照らし合わせて、「この人は80年間生きた」と表現している。
だとすると、80年経ったから身体が変化したと考えるより、80年と呼んでいる期間の中で、この身体では何が起きたのかと考えた方が、わたしには自然に見える。
この違いは小さいようで、かなり大きい。
前者では「年を取った」というところで話が終わる。後者では、「なぜ血管が変化したのか」「なぜ筋力が落ちたのか」「なぜ人によって進み方が違ったのか」という次の問いが残る。
年齢は重要な情報である。ただし、身体そのものではない
だからといって、年齢を無視すればいいわけではない。年齢は重要な情報であり、集団として見れば様々な疾患や身体変化と強く関連する。
ただし、年齢だけで身体の中身まで説明したことにはならない。
「年齢のせいだから仕方がない」と考える前に、その身体で具体的に何が起きているのかを見る。変えられない部分もあるだろうし、変えられる部分もあるかもしれない。
少なくとも、「加齢によって」という一言で、そこで考えるのをやめる必要はない。
今回、血管について考えていただけだったのに、なぜか途中から相対性理論までつながった。
もちろん、老化を相対性理論で説明できるという話ではない。
ただ、一つの外部基準だけを見ても、その内部で実際に何が起きたのかまでは分からない。
その構造が、わたしには妙に重なって見えた。
そして最後に残ったのは、かなり単純な区別だった。
年齢は時計の情報であり、老化は身体の状態の情報である。
二つは強く関係している。しかし、同じものではない。
そこからさらに、「時間」という言葉自体は何を指しているのかまで考えた続きは、「「時間は存在しない」と言う前に、時間とは何か」に書いた。


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