「無限モード」とは何か。問題が消えなくても、念が残らなくなる状態

青い無限記号の光と一体化する人間のシルエット 身体管理

MUGEN MODE / 無限モード

配達中に、鼻歌が勝手に出る日がある。

反対に、愚痴や罵倒の言葉が勝手に漏れる日もある。

同じ自転車に乗り、同じ街を走り、同じ店から商品を受け取っている。借金もUberへの不信感も、その日のうちに消えたわけではない。

それでも、鼻歌が出る日と、愚痴しか出ない日がある。

この差に、名前をつけておくことにした。

無限モードと、破滅モードである。

無限モードは、体力が無限になる状態ではない

無限モードとは、心と身体が軽く、問題や怒りが念として残らず、不確かな状況まで自然に楽しめる状態のことだ。

「無限」といっても、本当に無限に動けるわけではない。長時間自転車に乗れば疲れるし、真夏には普通に削られる。限界を無視して走り続ければ、身体も壊れる。

ただ、疲労によって思考まで止まらない。

何か問題が起きても、その不快感に一日中占領されず、必要な処理をしたら次へ移れる。長時間走ったあとにも、文章を書こうという気持ちが残っている。

身体の中に余力があり、その余力がそのまま心と行動の軽さへつながっている。

その状態を、わたしは無限モードと呼んでいる。

判定方法は、自然に漏れてくるもの

無限モードかどうかは、「今日は前向きに考えよう」と決めて判定するものではない。

自然に漏れてくるもので分かる。

稼働しているうちに、気づけば鼻歌を歌っている。公園やコンビニを見つけると、少し止まって文章を書きたくなる。

商品を受け取り、届け、また次へ向かう。そんな単純な繰り返しの中に、退屈ではなく至福を感じる。

予定外のことが起きても、「面倒くさい」で一日が止まらない。処理できるものは処理し、無理なら別の経路へ移る。

意識してそう振る舞っているわけではない。自然と、勝手にそうなる。

逆に破滅モードへ入ると、同じ口から愚痴や罵倒の言葉が漏れる。小さな待ち時間に腹が立ち、少し予定がずれただけで全部が嫌になる。身体も頭も重く、何か一つ処理するたびに休みたくなる。

性格が入れ替わったわけではない。

同じ人間でも、状態によって、世界から受け取るものが変わる。

同じ配達が、旅にも苦役にもなる

無限モードという言葉が必要になったのは、まったく同じ生活が別物へ反転するのを何度か見たからだ。

低温調理した肉を中心に食べ、断酒し、毎日身体を動かしていた時期、配達の合間にコンビニや公園で文章を書くようになった。

装備は、二台のスマホ、ノイズキャンセルイヤホン、折りたたみキーボード、普通の非電動ママチャリである。

海外でもなければ、観光地でもない。

それでも街を移動し、身体を動かし、途中で立ち止まって文章を書く生活が、旅のように感じられた。

これはもう、デジタルノマドそのものじゃないかと思った。

ところが、その後酒を入れ、運動量と生活リズムが崩れた。

再び同じ自転車へ乗っても、稼働はただの不快な時間になっていた。スマホもキーボードもあり、時間もある。それなのに、外で文章を書きたいとは思わない。

旅だと思おうとしても無理だった。

そこから断酒し、食事と身体の状態を戻していくと、同じ街がまた旅になった。久しぶりに公園へ入り、ベンチで文章を書いていた。

Uberへの不信感も、借金も、何一つ解決していない。

変わったのは、わたしの状態だった。

物理が先、意味が後。

生活の形がデジタルノマドを作っていたのではない。身体の状態が、その形を旅として成立させていた。

身体が軽いだけでも足りなかった

低温調理した肉を中心にしてから、酒を飲んでも以前ほど身体が重くならない時期があった。

それなら、酒を入れてもいけるのではないか。

そう考えて試したが、いけなかった。

身体の軽さは比較的残っていたのに、精神状態はまったく別物になった。

酒を入れていない状態では至福だった単純な反復に、強い退屈を感じるようになった。脚は動くのに、同じことを続けていられない。もっと強い刺激、もっと変わった出来事が欲しくなる。

酒を飲んでいる間は、酒そのものが刺激になる。酒を止めると、今度は低刺激の時間に落ち着けない。

少なくとも、わたしの中ではそうなった。

無限モードは、単に疲れにくい身体ではない。

刺激の少ない反復の中でも満たされ、不確かな出来事が起きても、それを楽しめる精神状態まで含んでいる。

酒は、その部分をはっきり壊した。

わたしが断酒を我慢の話として扱っていない理由は、「断酒は、我慢ではやめられない」にも書いている。

問題は消えない。しかし、念が残らない

人生から問題は消えない。

無限モードでも、理不尽な警告は届く。注文は遅れる。道を塞ぐ人間もいる。金の問題も残っている。

ただ、状態が軽ければ念が残らない。

ここでいう念とは、出来事そのものが終わったあとも怒りや不快感が頭の中で繰り返され、次の行動まで重くしてしまう状態のことだ。

必要な対応をしたあとも、「あいつは何なんだ」「なぜ自分がこんな目に」と、何度も同じ場面へ戻る。そうなると、現実の問題より、頭の中で再生される問題の方が長くなる。

無限モードでは、それがかなり早く消える。

問題を無視しているわけではない。問い合わせが必要なら問い合わせるし、記録が必要なら残す。逃げ道を作る必要があれば作る。

処理したら、次へ行く。

問題は起きているのに、生活全体を占拠し続けない。

ある意味では、問題が消える。

一日の差は小さくても、年単位では別の人生になる

ここまで無限モードと破滅モードを対比してきたが、実際にはその中間もある。

わたしは現在、自分の状態を大きく三つに分けて見ている。

調子がよく、身体にも頭にも余力があり、やるべきことをほとんど抵抗なく処理できるのが「無限モード」。

生活そのものは普通に回せるが、仕事をすれば疲れるし、何かを始めるには多少の気合も必要になるのが「普通モード」。

そして、身体も頭も重く、今日を終わらせるだけでかなりのエネルギーを使ってしまうのが「破滅モード」である。

もちろん、実際の身体がきれいに三段階へ分かれているわけではない。自分の状態を見るために、便宜上そう呼んでいるだけだ。

一日だけを切り取れば、この三つの差はそれほど大きく見えないこともある。

普通モードでも仕事はできる。破滅モードでも、無理をすればその日の生活費くらいは稼げるかもしれない。無限モードだからといって、一日で人生が劇的に変わるわけでもない。

ただ、その日の仕事が終わったあとを見ると、差がはっきりする。

無限モードでは、長時間身体を動かしたあとにも文章を書ける。少し時間が空けば、何かを作ったり、次のことを考えたりする余力が残っている。

普通モードなら、仕事を終えればそれなりに疲れる。それでも翌日にはまた動けるし、生活そのものは普通に続いていく。

破滅モードでは、今日を処理するだけでかなりの力を使う。何かを積み上げる以前に、とにかく休みたい、楽になりたい、という方向へ意識が向きやすい。

では、この差が三年続いたらどうなるのだろう。

五年ならどうか。

十年なら。

無限モードで毎日少しずつ余力が残れば、生活費を稼ぎながら文章が増え、本ができ、知識や技術も積み上がっていくかもしれない。そこから、今はまだ存在していない仕事や収入源、移動の自由が生まれる可能性もある。

普通モードでも積み上げることはできる。ただ、未来へ回せる余力は少なくなる。

破滅モードでは、今日を終わらせるために、本来なら未来へ回せたかもしれない力まで使ってしまう。

もちろん、無限モードで生きれば十年後に成功している、と言いたいわけではない。何を積み上げても結果が出ないことはあるし、途中で環境も身体も変わる。

それでも、毎日の終わりに何が残っているかはかなり違う。

一日ならほとんど見えない差でも、それが何千日と重なれば、同じ人間でも到着する場所はかなり離れていくのではないかと思っている。

そして、無限モードの価値は未来だけにあるわけではない。

今この瞬間も快適でありながら、その余力が少しずつ未来の選択肢へ変わっていく。

わたしが考える成功――今日の自己感覚が幸福であり、同時に明日以降の選択肢も少しずつ増えていること――にも、そのまま重なる。

そう考えると、今のわたしにとって、無限・普通・破滅という三つのモードのどこで生きたいかに迷いはない。

普通モードでも生きてはいけるし、破滅モードの日が完全になくなるとも思っていない。

それでも、自分から目指す場所は決まっている。

無限モードを維持できる条件を作り、その状態で今日を生きる。

一日では小さく見えるその違いが、三年後、五年後、十年後にどれほど大きな差になっているのか。

今のわたしは、それを自分の人生で確かめてみたい。

最近、炭水化物を連続して取る実験をしたとき、「無限モード」から「普通モード」へ移る途中の変化を改めて観察した。脚はまだ普通に動き、身体も辛くない。それなのに配達の反復が退屈になり、固定シフトの仕事へ移る方が強く魅力的に見え始めた。

一日目から数日後までの変化は、「炭水化物を数日戻したら、『無限モード』が崩れた」に記録した。状態が変えるのは動ける量だけではなく、同じ選択肢のうち何を合理的だと感じるかにまで及ぶ。その結果、計画した自分と実行する自分がずれ、人生の方向そのものが安定しなくなる。この部分は、「人生が不安定なのは、計画した自分と実行する自分が違うから」に詳しく書いた。

無限モードは、一つの方法では作れない

最初は、低温調理した肉によって無限モードへ入ったと思っていた。

実際、それはかなり大きかった。

ところが、肉だけを食べる状態へ近づけ、冷凍野菜を抜いていくと、便通は正常なまま身体の性能が落ちた。猛暑のせいだと思っていたが、冷凍オクラを戻すと、同じ暑さの中で雲泥の差が出た。

除いて、落ちて、戻して、戻った。

低温調理だけが答えではなかった。

現在のわたしの無限モードは、断酒、一日一食、低温調理した肉、少量の冷凍野菜、睡眠、長時間の自転車稼働、限界まで使い切らない休み方、仕事との精神的な距離など、複数の条件がかみ合って成立している。

その土台は、「借金455万円の生活を『至福』に変えた、六つの習慣」にまとめている。

何か一つを守れば完成する食事法でも、精神論でもない。

身体で起きていることを観察し、条件を変え、その後どうなったのかを見る。

食事法の名前に身体を合わせるのではなく、身体から返ってきた結果に合わせて食事を変える。

無限モードは完成品ではなく、そうした調整がうまくかみ合っているときに現れる状態なのだと思う。

旅を楽しめるかどうか

わたしにとって、無限モードを判断する分かりやすい基準がある。

旅を楽しめるかどうかである。

わたしは二十代のかなり長い時間を海外で過ごした。しかし、旅人になったことは一度もなかった。

一つの場所へ住み、そこから別の国や街へ移る。定住先を点々としていただけで、旅行そのものは好きではなかった。

友人や恋人と旅行へ行っても、現地で食事をするたびに疲れる。移動も店を探すことも面倒になる。同行者が少しわがままを言えばイライラし、周りが「あそこへ行こう」と元気に動いている横で、わたしはホテルへ戻りたくなる。

当時いちばん楽しめたのは、旅行先のホテルでビールを飲みながら話している時間だった。

体力がなく、疲れやすく、変化を処理する余裕がなかったのだと思う。

旅とフードデリバリーは、かなり似ている。

何が起きるか分からない。ルールを守らない人間とも絡む。予定がずれ、環境が変わり、トラブルも処理しなければならない。

状態が悪ければ、それらはすべて負荷になる。

無限モードでは、その不確かさ自体を楽しめる。

心も身体も、とにかくフットワークが軽い。

だから今のわたしは、以前とは別の意味で旅に興味を持っている。

戻し方が分かればいい

無限モードは、たどり着いたら二度と崩れない境地ではない。

酒を入れれば崩れる。食事の条件を変えても崩れる。休み方を間違え、体力を使い切れば消える。

実際、何度か消えた。

ただ、一度失い、条件を戻し、また同じ状態が出たことで、少なくともわたしの中では偶然の一日ではないことも分かってきた。

維持できなかったら失敗、という話ではない。

鼻歌が愚痴に変わったら、何かがずれている。

外で文章を書きたい気持ちが消えたら、根性で書く前に身体と生活を見る。

単純な反復が至福ではなく苦痛になったら、刺激を足す前に、なぜ低刺激へ落ち着けなくなったのかを考える。

そして条件を戻す。

問題のない人生を作ることはできない。

しかし、問題が起きても念が残らず、その日の中で何度でも次へ動ける状態は作れる。

しかも今のわたしには、その一日一日の差が、数年後の人生そのものにもつながっていくように見えている。

今を快適に生きながら、未来の選択肢まで少しずつ増えていく。

今のわたしにとって、それが無限モードである。

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