親の葬式には行かなくていい。――信号無視はするくせに「葬式」で罪悪感を感じる、あなたの脳のバグについて。

■ 1. 「聖域」を解剖する

タイトルを見てまず何を思っただろうか?

「親の葬式に行かないなんて、人としてどうなのか」 そんな声が聞こえてくるようだ。おそらくこの記事を読んでいるあなたの中にも、得体の知れない不快感や「罪の意識」が湧いているはずだ。

だが、冷静に、物理的に考えてみてほしい。

「葬式に出ないこと」は違法でも何でもない。ただの「マナー(社会的慣習)」だ。

一方で、あなたが急いでいる時に平気でする「信号無視」は、明確な「違法行為」であり、他者の生命を奪うリスクを孕んだ暴力だ。

命を奪うリスクのある違法行為には無頓着で、すでに生命活動を停止した「タンパク質の塊(客体)」の処理儀式に参加しないことには震え上がる。 この圧倒的な矛盾に気づいているか?

 

■ 2. 罪悪感の正体は「通知」に過ぎない

あなたが葬式に出ないことに感じる「罪の意識」は、あなたの魂が叫んでいるのではない。

幼少期からOSに強制インストールされた「世間体という名のアプリ」が、設定と違う行動を検知して鳴らしているだけの「エラー通知」に過ぎない。

あなたが手を合わせているのは親ではない。

「10年も放置した自分は冷酷ではない」と自分自身に嘘をつくための、免罪符(キャンセル料)を支払っているだけだ。 それは「供養」ではなく、あなたのエゴをなだめるための「事務作業」だ。

 

■ 3. 「行くかもしれないし、行かないかもしれない」という自由

「じゃあ、お前は絶対に親の葬式に行かないんだな!」 そんな極論を投げたくなるかもしれない。だが、私の答えはこうだ。 「行くかもしれないし、行かないかもしれない」

私が「行かない」と決めるのは、そこに「面倒だけど行っておかないと後で何を言われるか分からない」という不純な「社会的ノイズ」が混ざっている時だ。

そんな理由で動くくらいなら、私はいつも通りUberのチャリを漕ぎ、いつも通り自分の「今」を生きる。

逆に、もし私の内側から「どうしても最後に顔が見たい」という「純粋な衝動(シグナル)」が湧き上がったなら、私は即座に帰るだろう。

そこに「善悪」はない。あるのは「自分の信号に従うか、他人のノイズに従うか」という、その二択だけだ。

 

■ 4. 孤独こそが、真の誠実さである

「誰に何を言われても関係ない」という圧倒的な孤独(独立)を手に取った時、初めて他者は「鎖」から「現象」へと変わる。

私は親の葬式を誇りもしないし、恥じもしない。 ただ、その瞬間の因果に従って、私という現象を全うするだけだ。

あなたがその黒い服を着るのは、あなたの心が震えているからか? それとも、隣の人に「冷酷な人間」だと思われないためのコスプレのようなものだろうか?

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