本気でやることにした。
——閑散期の撤退と、13時間稼働という決断
→ 【Episode 0】元メジャーアーティストが、自殺マニュアルを経て「借金455万」を背負うまでの全記録。
倉庫と清掃で、至福を知った
借金が400万を超えた時点で、わたしは動き出すことにした。
派手な一手は何もない。まず向かったのは、倉庫作業と清掃の現場だった。
かつて海外のステージに立ち、トップセールスとして数字を追っていた男が、作業着を着て荷物を運び、床を磨く。世間的には「転落」以外の何物でもないだろう。
だが、仕事終わりの夕暮れ時、帰路につくわたしは震えていた。全身を突き抜けるような、純粋な至福だった。
「なんだ。これでよかったんだ」
頭の中の退屈が消えていた。全国音楽チャート1位や月収数百万円を経験したときにもなかった、強い充実感があった。
わたしの場合、身体を十分に使うと、余計なことを考え続けなくなった。ただ動き、汗をかき、腹を減らす。それだけで、その日の幸福感は大きく変わった。
ただ、一つだけ引っかかっていた
倉庫・清掃の現場は良かった。身体を使い、余計な思考が沈黙する。その感覚は本物だ。
ただ、どうしても一つだけ引っかかるものがあった。
時間を、他人に握られているということだ。
出勤時間も、退勤時間も、休憩のタイミングも自分では決められない。シフトを待ち、返事を待ち、人間関係を作り直す。
借金を返すために働き始めても、また自分の時間を他人に決められることが苦しかった。
そんな時、ふと思い出したのがフードデリバリーだった。
フーデリをやってみた。最高だった。
フードデリバリーは以前からちょこちょこやっていた。本気ではなく、副収入程度のつもりで。
改めてやってみると、フードデリバリーでは、働く時間も場所も自分で決められることに気づいた。
- 出る時間を自分で決められる
- 帰る時間も自分で決められる
- どのエリアで走るかも自分で決められる
- 嫌ならアプリを切れる
収入は不安定だ。時給換算すると話にならない日もある。それでも、この自由の価値は揺るがないと思った。
身体を動かしながら、誰にも管理されず、街を漂う。倉庫・清掃で知った「肉体労働の至福」に、自由というもう一つの要素が加わった感覚だった。
これは最高かもしれない、と思った。
閑散期が来た。全然稼げなくなった。
繁忙期が終わり、閑散期に入った。稼働しても、注文が来ない。来ても単価が低い。時給換算すると、どう考えても割に合わない数字になった。
借金は待ってくれない。固定費も待ってくれない。
「これで返済を回すのは無理だ」
そう判断し、わたしはいったんフーデリから距離を置くことにした。
普通のバイトを探した。現実を思い知った。
気持ちを切り替えて、普通の仕事を探し始めた。
日払い・週払い、時給1,500円以上、身体を動かせる仕事。条件を絞って片っ端から応募した。
カプセルホテルの夜勤は採用されたが、シフト保証がなく収入の見通しが立たないため辞退した。
期間工系にも応募したが、電話に出た瞬間に「刑務所のような生活が始まる」という感覚が走り、スルーしてしまった。近所の仕分け系バイト派遣は、連絡が来なかった。
何度か同じことを感じた。
応募して、返事を待ち、条件を相手に握られ、シフトも読めない。働く前から、自分の時間が他人に握られている。
倉庫・清掃でシフト労働の良さは知っていた。でも今のわたしには、その構造自体がどうしても息苦しかった。
フーデリと、本気で向き合うことにした
何度か普通の仕事を試みて、その度に同じ違和感に戻ってくる自分に気づいた。
そして改めて考えた。
フーデリは閑散期に稼げなかった。でも、まだ試していないことがあるのではないか。
雨の日に稼働したことがあった。その日の日給は3万円を超えた。装備が整っていなかったから消耗したが、可能性は確かにそこにあった。
まだやれることが残っている気がした。
「本気でやってダメなら、そのとき雇われに戻ればいい」
わたしはそう決め、フードデリバリーで生活できるのか、できることを全部試すことにした。
13時間稼働という発案 ── その根拠と計算
本気でやると決めた以上、まず数字と向き合った。
- 固定費・借金返済に必要な金額:月 約25万円
- 今の稼働条件:閑散期、地方稼働、非電動自転車使用
- 単価が低い分は、時間で補うしかない
- 弾き出された数字:1日 13時間稼働
大都市ならともかく、地方、非電動自転車稼働、閑散期のフーデリで月25万を作るには、どう稼働すればいいか。繁忙期なら短時間でも稼げる。だが今は閑散期だ。単価が低い分、時間で補うしかない。計算した結果、出てきた数字が1日13時間稼働だった。
▸ 「13時間稼働」の定義
ここで、「13時間稼働」の定義をはっきりさせておく。これは、13時間ずっとペダルを漕ぎ続けているという意味ではない。
朝、配達用のリュックを背負って家を出た瞬間から、最後の配達を終えて自宅の扉を開けるまで。その全拘束時間のことを、わたしは「13時間稼働」と呼んでいる。
途中には当然、休憩も挟む。コンビニでコーヒーを飲む数分も、日陰で突っ立ってぼーっとする数分も、この中に含まれている。
自宅に戻ってすぐシャワーを浴びる、その時間すらも「13時間」の内側にカウントしている。
つまりこれは、純粋な走行時間の合計ではない。「家を出てから、生活に戻るまでに使っている時間」の総量だ。それが13時間、ということ。
▸ 「13時間」は、本当に無茶な数字か
「13時間」と聞くと、とんでもない数字に見えるかもしれない。だが、一般的な「8時間労働」も、一度ちゃんと分解してみてほしい。
すべて会社に拘束されている時間。「8時間労働」と呼ばれているだけで、実質は10時間以上。
拘束時間は長いが、他人に握られている時間は一秒もない。
時間の長さだけを切り取って比較するのは、フェアじゃない。多くの「8時間労働」は、時間だけでなく神経もすり減らす。上司の顔色、同僚との温度差、評価されているかどうかの不安。時間の拘束に、精神的なコストが上乗せされている。
だから、「13時間」という数字だけを見て「無茶だ」と思う必要はない、と思っている。
さらに言えば、ブログやKindleの執筆といった作業時間も、この13時間の中に組み込んでいる。これは「稼働の合間に無理やり執筆時間を捻出している」という話ではない。逆だ。執筆をこの枠の中に含めることで、身体を追い込みすぎないようにしている。
一見矛盾しているように聞こえるかもしれない。だが、これは「休まず働き続けろ」という根性論ではない。
一日をペダルだけで埋め尽くし、くたくたになって帰宅し、翌日を丸ごと「回復のための休養日」に潰す。そういうやり方は、わたしには向いていない。
それよりも、一日あたりの密度を落とし、疲労度を低く保ちながら、稼働と執筆を織り交ぜて時間を埋めていく。そうすれば、翌日にリセットボタンを押す必要がなくなる。
休みを作らず、淡々としたリズムを毎日キープし続けること。それが、13時間という枠の本当の狙いだ。
正直、これは至福の形ではない。わたしにとって肉体労働は幸福の条件のひとつだが、最も幸福度が高いのは6時間前後だと感じている。13時間はその倍以上だ。
ただし、これはあくまでも「閑散期に返済を回すための過剰労働フェーズ」だ。ゴールではなく、通過点だ。
身体・装備・稼働スタイルを整えながら、同時にブログとKindleでデジタル収益を育てていく。その収益が積み上がっていけば、稼働時間は自然と削れる。
この長時間稼働で身体を完全に潰さないために試していることは、「借金455万円の生活を『至福』に変えた、六つの習慣」にまとめている。
13時間を選んだのは、根性でも意地でもない。今この状況で、返済を回しながら自由を守るために必要な、最低限の数字だったからだ。
▸ 13時間のもう一つの意味 ── 計算は、もう終わっている
そしてこの「13時間」という設定には、数字の話とは別の、もう一つの意味がある。
計算は、最初に一度だけやった。しかも基準にしたのは、一年で最も稼げない閑散期だ。その最悪の条件で13時間走れば、月25万のラインに届く。それがこの数字の根拠だ。
最悪期を基準に設計してあるということは、繁忙期や雨の日の上振れは、すべてプラスの差額として積み上がるということだ。
だから途中で多少の下振れがあっても、長い目で見ればほぼ確実に吸収される。
つまり、計算はもう終わっている。効率を追う必要も、日々の数字を気にする必要も、もうない。
「土曜だから稼げるはず」「今日は単価が低い」——そういう予測や期待は、持った瞬間に実際との差分が感情になる。
だが枠の設計が正しい以上、良い日も悪い日も月の中で相殺される、ただの変数だ。
数字と向き合うのは、月に一度の検証だけでいい。設計が現実とズレていないかを確認したら、また意識から消す。普段の稼働中は、一切見ない。考えない。
決めるのは「何時から何時まで街にいるか」だけだ。その時間の中で、注文が入れば配達し、入らなければ休むか文章を書く。
だから体調も、よほどのことがないかぎり、開始の条件にはしない。多少眠くても疲れていても、とりあえず枠通りに始める。必要なら途中で家に戻って寝ればいい。
守るのは枠だけで、枠の中身は完全に自由だ。
13時間は、返済のための数字であると同時に、凪の心で街を漂うための「器」でもある。最悪を基準にした事前の設計が、稼働中の無心を保証している。
▸ 成立条件はただ一つ、1日1食
ただし、この「枠の中は自由」というスタイルには、一つだけ成立条件がある。
1日1食を守ること、だ。
これは健康法の話ではない。わたしが13時間の稼働を続けるために必要だった。
稼働の途中で固形物を入れると何が起きるか。血流が消化に取られ、身体が「休息モード」に切り替わる。
そこから再び走り出すには、重くなった身体を意志の力で引きずり起こす必要がある。つまり、食べた瞬間から「再開」が根性論になる。
逆に、稼働中に何も食べなければ、身体はずっと「活動モード」のままだ。休憩しても、しばらくすると自然に「そろそろ動くか」という感覚が湧いてくる。
公園のベンチで執筆していても、ある時点で「もう書くのはいいから、走りたい」と勝手に思える。
意志の力で自分を動かしているのではない。動きたくなる状態を、食事の設計で物理的に作っているだけだ。
わたしが「13時間の間、ほとんど自由に休憩していい」と言えるのは、このルールがあるからだ。長く休憩しても、しばらくすると再び走り出しやすい。
だから休憩の回数を管理する必要も、サボりを警戒する必要もない。
この記録の続きは、ブログの「生存記録」カテゴリで随時更新している。